この角が永瀬の時間を22分削る。やがて永瀬は桂を打って香取りを防ぎ、89手目、端に歩が成り込み、永瀬がこの将棋で初めて敵陣上陸を果たす。対局開始から10時間が経って、ようやく本格的な攻め合いとなったが、未だ形勢がどうなっているのかわからない。AIに評価値を聞くとまだ互角だという。終盤になっても均衡を保ち続けるというのは、両者の指し手がハイレベルだということだ。
福崎が「これでまだ五分なん? こんなに指しているのに、互いの玉、まだまだ全然詰まへんよ」とあきれるように言えば、村山も「この将棋、いつになったら差がつくんですかねえ……」とつぶやいた。
藤井が永瀬の攻めに対応して玉を左側に逃げ出していき、入玉が視野に入った。手数はちょうど100手。持ち時間がなくなっていくのと対照的に駒台の駒が増えていき、20時22分、双方とも秒読みに入る。
永瀬は敵陣に取り残された飛車を使い、次々と駒を取りにいく
攻め続けている永瀬が重大な選択を迫られた。当たりになっている馬を逃げるか、それとも放置して攻めるか。永瀬は121手目で飛車取りに金を打ったが、斎藤が「この手は危ない」と即座に反応する。後手玉が上部に逃げ出したときに捕まえられるのかと。
斎藤の予感は当たった。藤井は玉を逃げ、そこでいったん立ち止まって反撃する。後手玉の行き先に控える先手の飛車を追い、端角を叩き出して奪い、先手玉の逃げ道を封鎖する。永瀬は流れをせき止められない。141手目、慌てた手付きで銀を打って入玉ルートを防ごうとするが、逆に銀取りに金を打たれて引いた。嗚呼、これは一手パスに等しい。終盤戦でのパスは致命的だ。角も取られ、入玉を防げず、永瀬の入玉は絶望的となった。さすがに心が折れただろう。「検討は終わりですかね」と、つい言ってしまった。
だが、私は永瀬のことを何もわかっていなかったのだ。
永瀬は玉を捕まえるのは諦め、敵陣に取り残された竜を使って次々と駒を取りにいく。藤井は角を捨てて永瀬玉を下段に落とし、挟撃態勢を作ろうとするが、それでも執念の金を打って粘る。藤井は寄せ切れず、ついに永瀬の玉が中段に逃げた! なんという粘り腰なのか。どうやったら彼の心は折れるのか?
1分あればどんな詰みでも読めてしまう、藤井の“規格外の読み”
福崎が「この将棋はすごいね。加藤先生が名人になったときを思い出すね(※1982年の名人戦では1持将棋2千日手の末4勝3敗で加藤一二三九段が中原誠名人から名人を奪取)。タイトルをかけた死闘、いや棋士人生をかけた闘いやね」と感心したようにつぶやく。
捕まえそこね、慌てるかと思ったが、藤井は冷静に勝ち方を切り替えた。