斎藤が控室に入ってきたので、「申し訳ありませんが」と前置きして先日の永瀬戦のことを聞いた。
「永瀬さんは狭い変化を深く研究していました。45手目に角を打ってくるのは、その角が取られるのでやってこないと思っていましたが、その後、玉を右に逃げ出すというプランで考えられていたのが大きかったというか、こちらは痛かったですね。後手がまとめにくいという将棋になり、初見では正確に指すのは難しかったです。
途中、反撃で香を打つ場面で候補が2つあったのですが、プロの第一感ではなくて、異筋のほうを選ぶべきでした。感想戦でもやったんですが、△4五香は先手からは読みにくいし、永瀬さんも予想外だったようなので。この手も有力かと読んでいたんですけど、でも本筋の手を選んじゃいました(苦笑)。勝負の駆け引きとしては、本筋を外して相手の予定外の局面に持ち込むべきでしたね。相手の研究から変化するタイミングを逃してしまったのが、勝負としてはまずかったのかと思います。あの将棋が下地にあったので、安全な右玉を選んだのでしょう」
全冠制覇をかけた戦いが神戸で開催される
後手の藤井が先に開戦し、48手目、桂を跳ねた。永瀬は持ち歩をためらわず自陣に打ち、6筋に駒が重なっていく。この歩が8筋からの攻めに対し堅いのだ。ここで12時10分、昼食休憩に入った。
私は今回、見たい場所があった。神戸港震災メモリアルパークだ。1995年1月17日の阪神・淡路大震災、このとき将棋界は大きなタイトル戦の最中だった。七冠中六冠を保持する羽生善治が、最後のタイトル王将を取りに谷川浩司十七世名人に挑戦していて、その七番勝負が1月12日に始まっていたのだ。谷川は神戸出身・在住で、故郷が甚大な被害を受けたなかタイトル戦を戦った。そしてフルセットの末、4勝3敗で防衛した。
谷川は当時32歳、羽生は24歳だった。あれから28年、全冠制覇をかけた戦いが神戸で行われる。
私は谷川が21歳で名人になった1983年に奨励会に入り、1995年3月7日に26歳直前で奇跡的に四段にあがった。なので「1995」という数字は忘れようがない。東日本大震災の震災遺構は何度も見に行ったが、阪神・淡路は初めてだ。遺構を見て、改めて凄まじい災害だったことを思いだす。
修行時代に覚えたセオリーや常識を藤井が覆していく
13時に対局再開、ここからの藤井の駒組みは異質だった。
飛車先が交換できるのに交換せず、玉の側近の金を7三~6四金と上がって6五歩の位を守る。さらには左金までもが右側に寄せていく。永瀬が持ち歩をすぐ自陣に打った手といい、今までにはない攻防だ。
「藤井は定跡を10年は進めた」と以前書いたが、守備的な右玉の将棋もまた変えようとしている。右玉なのに手待ちなどのニュートラルな手は1手も指していない。〈右玉は守備的な戦法〉〈飛車先交換は得〉〈歩切れにするな〉〈金は引く手に好手あり〉〈銀が前、金が後方が良形〉……私が修行時代に覚えたセオリーや常識を、すべて覆していく。これが次の世代の感覚となっていくのだろう。