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 2人の言葉のとおり、後藤邑子は危うい危機を何度も切り抜け、生還することができた。だが、自伝の中では彼女のすぐ隣をいくつもの死が通り過ぎていく。持病ひとつなく、優秀な成績で大学に進学した妹が、なんの予兆もなく寮の部屋で心臓発作を起こし亡くなったこと。コロナ禍で見送った叔母のこと。同じ声優として仕事を共にした松来未祐から持病を明かされ、彼女が亡くなるまで寄り添った交友と、今も続く彼女の遺族との交流のこと。

 だが、あえて自伝の中で触れられていない死がある。小さなことだからではなく、おそらくはあまりに大きすぎるからなのだろう。死者36名。『涼宮ハルヒの憂鬱』を作り、声優として後藤邑子をブレイクさせた京都アニメーションは、2019年に起きた放火事件で壊滅的な被害を受けることになる。

 “Tragedy in an Animation Utopia” あるアニメーションの理想郷における悲劇、と海外紙『ハリウッド・リポーター』は当時、その事件を報じる長い記事にタイトルをつけた。京都アニメーションは『ハルヒ』の中でユートピアを描いただけではなく、アニメに関わるクリエイターたちの理想的な環境をめざし、そして半ば実現しつつあった。

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 徳間書店のバックアップを得たジブリ、大阪芸大の若き俊才たちが集まったガイナックスともちがう、下町の主婦をあつめた下請けから出発して『ハルヒ』を送り出し、日本のサブカルチャーを変えるまでになった京都アニメーションは、同時に社員の福利厚生を重視し、新しい企業文化を作ることに成功しつつあった。

 その建設しかけたユートピアが1日にして叩き潰され、深い傷を負った。亡くなったスタッフたちの名前、重傷を負った人々の容態は今も明かされていない。

「こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと」

 2023年9月、2つのニュースがネットを駆け抜けた。1つは角川スニーカー文庫から、3年ぶりとなる新作『涼宮ハルヒの劇場』が谷川流により執筆中、制作中であるというニュース。そしてもう1つは、第6回の京アニフェスにおいてSOS団、平野綾、茅原実里、後藤邑子がステージに上がるというニュース。

 2つのニュースを結びつけ、京都アニメーションが作る『涼宮ハルヒ』の新作を期待するのはまだ気が早いかもしれない。だが、再起不能かとまで思われた深刻な被害から、長い時間をかけて京都アニメーション、海外誌が「日本アニメーションのユートピア」と呼び、卵の文化の世代交代を後押しした企業は今、再び立ち上がろうともがいている。

 村上春樹の2009年のスピーチは、「壁と卵」の比喩について説明する。

「さて、このメタファーはいったい何を意味するのか? ある場合には単純明快です。爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です。それがこのメタファーのひとつの意味です。

 しかしそれだけではありません。そこにはより深い意味もあります。こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと。かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは『システム』と呼ばれています」