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なんでここに涼宮ハルヒが…“パレスチナのハルヒ”と“17年後のユートピア”

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2023/11/11
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 そして高校で出会った演劇部の中で「自分でない人間になるのは楽しい」という演技の喜びに出会っていく。いわば彼女は病気を経験することによって、幼いころからスポーツ少女として育った「陽キャ」としての彼女と、病気による身体的劣等感を抱えた文化系の「陰キャ」、陰と陽の二つの人格を心の中に持つようになるのだ。

 演劇は彼女を変え、別の人生へと導いていく。「声優なら自分の病気がハンデにならないのではないか」そう考えた彼女は、父親の反対を押し切り、地元の大学を中退して代々木アニメーション学院に入るために上京する。

 健康に不安があり、薬の副作用で肌の荒れた顔も出したくない、しかし演劇はやってみたいという彼女にとって声優界は、健康面での弱さや身体へのコンプレックスを抱えたまま演じることが許される世界だった。それは壁のように厳しい芸能界のシステムと、本来ならそれに砕かれてしまう卵のような魂の間を結ぶ、アニメというサブカルチャーから派生した寛容な芸能ジャンルとして彼女を迎えた。

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20世紀のサブカルチャーとは明らかに違っていた「ハルヒブーム」の“ユートピア”

 後藤邑子の声優人生と、彼女をブレイクさせた『涼宮ハルヒ』という物語は、ともに「卵の文化」の中で育ってきた共通点がある。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品を象徴するこの有名なセリフを、主人公のハルヒは物語の第一声、新学期の自己紹介で言い放つ。現実の日本の学校生活であれば、それはあからさまに不適応な、人間関係から浮き上がった少女の吐く言葉だ。卵のようなハルヒの魂が、現実の学校の「壁」の中で叩き壊され、踏みにじられることを読者はよく知っている。

 だが谷川流による原作小説は、虚構と非現実を信じるハルヒの信念が現実化し、そして新しい現実の中で変わり者の友人たちが結ばれる世界を描いていく。それはいわば、卵が現実の壁を打ち壊していく一種のユートピア小説なのだ。

『涼宮ハルヒの憂鬱』が放送された2006年に行われたトークイベントをもとにした書籍『オタクはすでに死んでいる』の中で、岡田斗司夫は当時のオタク文化の変化について、自分たちの世代は大衆に差別されながらも知的エリート主義を持つ強者だったが、今の若い世代は共感と萌えを求める「弱者のたまり場になってしまった」(p138)という内容の分析をする。

 確かに、ハルヒのユートピア的世界観に感応した多くの少年少女が『ハレ晴レユカイ』のダンスを踊り、それがネットで肯定的にシェアされていく様子は、弱さや未熟さを辛辣に批評する岡田斗司夫たちの世代とは明らかに違う、新しい世代の文化だった。

 だが岡田斗司夫の予想とちがっていたのは、「日本と同じ土壌がないので、韓国や中国ではオタク文化の発展は難しい」(p166)という未来予想とは裏腹に、他人を冷笑したり否定する壁を作らず、卵のような自己に共感しシェアしあうハルヒ世代の文化スタイルが、中国や韓国だけではなく、世界中の若い世代のオタクのスタンダードになっていったことだ。

 新しい世代の「卵の文化」に押し上げられ、京都アニメーションは世界に知られるスタジオになっていく。