藤井聡太竜王・名人が30秒ほどで玉を上がると、永瀬拓矢王座は扇子をしきりにあおぎはじめた。詰まないことに気がついた顔だ。

 9まで秒を読まれて自玉の詰めろを受け、天を仰ぎ、盤から目を背けて、髪を引きちぎらんばかりにかきむしる、何度も何度も。そして和服の上から膝を強く握る。藤井が歩で王手すると、永瀬は両手をあわせ、握りこぶしを作って頭を叩く。感情をむき出しにしている永瀬の姿を見て、胸が痛くなる。一手で盤面が全部狂ってしまう。人生までが変わってしまう。もし永瀬に1分でも、いや30秒でも残っていたら……。

京都市「ウェスティン都ホテル京都」で行われた第71期王座戦五番勝負第4局

 私は「なんで? どうして?」とモニターを見ながら叫んでいた。見るのがつらい。つらすぎる。だけど見届けなければならない。

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 藤井は飛車で王手し、桂合いを強要し、歩を成り捨ててその桂を奪う。そして取った桂をつまんで歩頭に打ち下ろした。

 人間の感覚を超えたかのような藤井と、人間をやめると宣言した永瀬のシリーズは、どこまでも、どこまでも、人間と人間の戦いだった。

永瀬は悔しさを見せたあとなのに、感想戦ではいつもの2人

 藤井の王座奪取、史上初の八冠達成となった終局後のインタビューは、しかし興奮ではなく悄然とした雰囲気の中で行われた。

「本当に苦しいシリーズだったので、結果は幸いしたのですが、この経験を糧に、もっと実力をつけていかなくてはと感じています」(藤井)

「▲5三馬に代えて▲4二金なら。以下△同金▲同成銀△同玉▲5二飛の順がエアポケットに入ってしまっていて、▲6二飛だと足りないと思ったのですが、▲5二飛から▲5五馬の順なら駒が取れるので。それほど難しくない順だったので、逃していけなかったと思います」(永瀬)

 永瀬は何を見落としたかを律儀に答えた。

終局直後、大盤解説会場に姿を現した二人

 2人が大盤解説会場にもおもむき、順番に挨拶すると、藤井よりも、永瀬への拍手のほうが大きく、そして長かった。永瀬が素晴らしい戦いをしたことを、ファンはわかってくれていた。ありがとうございます。