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「北九州の恥」と呼ばれたド派手衣装を生んだ店主のプロ意識 「成人式には不適切な衣装」をなぜ作り続けたのか?

source : 提携メディア

genre : ビジネス, 働き方, 商品, 社会, ライフスタイル

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「最初から着物関係に携わろうと思っていたわけではありません。大学もまったく違う学部に進みましたし……。将来のことなんて、あまり考えていませんでした」

「人生、何があるかわからないから」と、大学と並行して通信制の専門学校に通い美容師免許を取得した。保険のつもりだった。そして大学卒業を控えた1992年、30年後に池田さんの人生を大きく変える街に、初めて足を踏み入れる。ニューヨークだ。

渡米がきっかけで貸衣装店を開く

きっかけは、「ブライダル産業新聞」という業界向けの情報誌だった。

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「当時アメリカで流行っていたレストランウエディングの視察旅行の参加者が募集されてたんです。その頃田舎で結婚式場をやるのもいいかなって考え始めていたので、おもしろそうだなって」

現地で通訳を介して情報交換する中、ニューヨーカーの心を強く捉えたのが、「着物」だった。

「日本の結婚式の写真を持って行って、見せたんです。そしたら、着物のページにみんな飛びついて、『アメイジングだ! これはアメリカじゃできない!』って」

白無垢、色打掛、黒引き振袖だけでなく、男性の羽織袴の写真もまた、喝采を浴びた。

「ニューヨークに行った時は、ブライダル関係の仕事をするって決めてたわけじゃなかったんです。でもこの時、『もう少し着物を頑張れ』って、言われた気がして……」

日本に帰国した池田さんは、1993年、北九州市八幡に小さな貸衣装店を開いた。

ド派手衣装の原点になった2人の新成人

「幼い頃から花嫁さんの要望を聞いてきたので、『お客様の要望は叶えるもの』っていうのが体に刷り込まれちゃってるんですよ」

細かな要望にも対応してくれるうえに、顧客との直契約だから値段も割安。小さな店はすぐに繁盛し始め、手狭になった八幡の店から現在のみやび本店、小倉に移転した。

このまま北九州市内で客足を伸ばし、ブライダル事業を軸として、順調に経営を進める予定だった2002年。池田さんの運命は思いもよらぬ方向に流されていく。