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 最初の攻撃から60年前の1948年、ナクバ(編注:「大災厄」。1948年、イスラエル建国に伴う民族浄化によりパレスチナ人が祖国を喪失した民族的悲劇を指すアラビア語)によって、75万人以上のパレスチナ人が難民となり、国連が提供する難民キャンプでの生活を余儀なくされました。その彼らはどうなったか。20年が経っても、国際社会は何もしてくれない。祖国解放のためには自分たちで銃を持って戦うしかないと、次々に解放運動が生まれた。当時、60年代後半から70年代初頭にかけて、パレスチナ・ゲリラによるハイジャックが頻発しました。これはお前たちの問題なんだ、世界が政治的解決をすべき問題なんだと、世界の市民の喉元に銃を突きつけてようやく、世界は問題の解決に動き出しました。

 1974年、アラファト議長(編注:当時のパレスチナ解放機構・執行委員会議長)は国連に呼ばれて有名なスピーチをします。「今日私はオリーブの枝を携えてやってきました。どうか私の手から、このオリーブを落とさせないでください」。

 オリーブは平和の象徴です。対話によって問題を平和的に解決するために、自分は国連にやってきたけれども、我々に再び銃を取らせるかどうかはあなたたち次第だということです。

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 1987年の第一次インティファーダ(編注:イスラエル占領下の民衆による、占領に対する一斉蜂起のこと)でも、占領下に20年置かれていた者たちが、子供たちまで手に石を握りしめて、イスラエル軍に立ち向かっていきました。

 パレスチナ人は銃を持ち、あるいは石を持ち、自らの運命を自ら闘って切り開く。歴史の主体、政治の主体として立ち上がったのです。

 しかし、ガザは封鎖され、「世界最大の野外監獄」となり、あまつさえその全土が無差別に爆撃され、破壊され、ガザのパレスチナ人は再び、配給がなければ生きていけない難民の状態に戻ってしまった――「難民を再び難民に戻すことに成功した」とは、そういう意味です。一旦は自分たちの運命を自分たちの手で切り開いていく、そんな政治的主体になったにもかかわらず、占領と封鎖がうち続くことによって、ガザのパレスチナ人は再び、国際社会の人道支援がなければ今日を食いつなぐこともできない、そういう存在にさせられてしまいました。

 海の汚染がイスラエルまで及ぶようになり、去年ぐらいから多少電気が供給されて汚水処理施設も一部稼働し、それまで全面的に遊泳禁止だったのが、昨年あたりから一部のビーチで泳げるようになったと言いますが、ビーチの大半は依然、泳いだら感染症になって死の危険があるぐらいまで汚染されています。だけど、電気も来ないので、夏はエアコンも扇風機も使えない。だから体に悪いとわかっていても、海に行くしかないんです。

 現在、ガザについて報道される時、「人道危機」という言葉がさかんに使われます。でも、ガザの人道危機とは、イスラエルが、パレスチナ人の政治的な主体性を抹殺し、祖国の解放だとか独立国家だとか難民の故郷帰還といった政治的な声を上げさせないようにするために、意図的かつ人為的に創り出したものです。

 人道的危機はあります。でも、それはガザ、そしてパレスチナの問題のすべてではありません。パレスチナ問題は政治的な解決を求める政治的問題です。だのに、巨大な人道危機が絶えず創り出されることで、人道問題にすり替えられているのです。