次夫は菊枝の残した遺書を書き足したことも否定。裁判長は「死人に口なしだね」と皮肉を述べた。遺書を平然と読み上げ、わが子の遺体写真を眺めても、一瞬動揺したものの、すぐ水のような態度に返り、裁判長に「おまえには涙というものがないのか」と言われた。又新は2月4日付朝刊社会面トップの記事に「悪虐のすべてを菊枝に捺りつけた憎々しさ」と見出しを付けた。
次夫に死刑判決が下される
その後、次夫は証人喚問を却下されて裁判長を忌避。公判は混乱し、仕切り直ししたすえ、事件からほぼ1年後の同年5月17日、求刑通り死刑の判決が言い渡された。判決前には「6人殺の次夫が獄中で書いた悲歎(嘆)感想録」が神戸で連載され、次夫は「あれほど幸福だった親子5人が 何の因果でこんなに悲惨な 地獄に堕ちてしまつたのか」と嘆いた。
判決を聞いた次夫の表情を又新は「顔面神経をピリッと動かせて少し狼狽気味だったが、すぐ気を取り直し、黙々と退廷した」と書き、大毎は「さすがに獰猛な被告も、死を恐れたものか、見る見るうちに顔面蒼白となり、一言も発せず、悄然として看守に守られながら獄に下った」とした。
その後、同年8月の控訴審でも死刑判決。12月、大審院で上告を棄却され、死刑が確定した。公判の過程でも供述を変え、母と長女は菊枝が殺害したとか、母・つねだけは自分ではないなどと主張した。
12月9日付朝刊では、大朝には菊枝の母の「不憫だが当たり前のこと」という談話が載り、大毎には中島上席検事の「次夫の心に野獣的なものがあったとしても、家庭の罪がその大部分を負わねばならぬ」という述懐が載った。
酒を飲めば必ず狂暴性を発揮した
各紙によれば、上告棄却を聞いた次夫は「涙を落とした」とも「目をうるませた」ともいう。死刑執行は翌1928(昭和3)年2月3日。4日付(3日発行)大阪時事夕刊によれば、死ぬまで犯行を否認。懺悔録も遺言もなかった。ただ、4日付神戸朝刊は辞世の歌を伝えている。「うるはしき彌陀の浄土の桜花親子手をとりともに眺めん」。
予審が始まった直後の1926年5月25日付神戸朝刊の連載「次夫といふ男」第3回は「首を擡げた殘(残)忍性」の見出しで次夫の性向を書いている。「猫を樫の棒で撲殺したり、蛇を寸断したりしても平気だったことが素行調査の結果、判明したのは事実。酒を飲めば必ず狂暴性を発揮したことも周囲の人は認めている」。