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菊枝の“遺書”に書き加えられた言葉

 5月25日付(24日発行)大阪毎日(大毎)夕刊は、菊枝の遺書は基一郎と妙子の将来を依頼するだけだったのを、次夫は2人を殺害し、菊枝が自殺した後、冒頭に「母をころしました」と書き足したと伝えた。

次夫が菊枝の残した「遺書」の工作をしていたことも明るみに出た(大阪毎日より)
菊枝の遺書。冒頭の「母をころしました」は次夫が書き加えた(『警察研究資料第14輯』より)

 25日付神戸又新日報(又新)朝刊は、殺人罪で予審に付されたことを報じた記事の冒頭、囲みでこんなことを書いた。

「6人殺し事件がかよわき(おんな)菊枝の犯行でなく、夫次夫の仕業だったことはいち早く報じた通りだが、他紙が全て菊枝一人の事件と断じ去っていた時、本紙のみは次夫の身辺に疑いを抱き、連日にわたって事件の推移とその犯罪の科学的演繹(一般的な前提から個別的な結論を得る方法)を試みていたが、果たして鋭敏な当局の目とここに一致したのをいささか誇りとする」。

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 なかなかの自負心だが、又新は同年10月の予審決定書で2歳の妙子は菊枝が絞殺したとされると、またしても「当時本紙が『次夫1人ではできなかったろう』と予断的に報道したことは、実に世の女性のためには遺憾ながら、全く的中した」と、結果的に誤りとなる事実について自賛している。

 その5月25日、次夫は拘置監収容のため姫路に移送されたが、龍野署の前に数百人の群衆が集まり、大騒ぎになった。警察・検察はほかに共犯がいないかどうか、かなり入念に捜査を続行。高見家の複数の雇い人が何度も調べを受け、新聞で共犯説を書き立てられたが、結局はシロに。事件から約5カ月後、予審判事は殺人で有罪として公判に付く決定をした。

龍野から姫路に移送される次夫と集まった群衆(神戸又新より)

 それに先立って、次夫は父・太蔵と約5分間接見。「父いはず、子語らず 相黙して唯涙ぐむ」=10月22日付(21日発行)神戸新聞(神戸)夕刊見出し=という対面だった。

初公判で次夫は犯行を否認「自分は眠らされていた」

 この年12月に大正天皇が逝去。初公判は年号が変わったもののまだ諒闇(服喪の期間)の1927年2月2日。各紙の報道をまとめると、大勢の傍聴人が詰め掛けた姫路支部裁判所の法廷で次夫は、「菊枝が6人全員殺した」と犯行を否認した。

 それまでも次夫は「めいの2人は自分が殺したが、母と子ども3人は菊枝が殺害した」「母だけは殺していない」などと供述を二転三転させたが、公判で「自分は薬で眠らされていた」と全面否定に転じた。