バスも最後は市街地を離れ、ひとけのない山の中のバスロータリー、千早赤阪村立中学校前で終点だ。そこから先に登ってゆく小さなコミュニティバスもあるようだが、ここでは終点でバスを降りて市街地の中を歩くとしよう。
坂道を登ると“ピカピカの役場”が見えてきた。ちらほらあの人の気配も…
バスが登ってきた坂道を、今度は歩いて下ってゆく。ほどなく見えてくるのが、千早赤阪村役場。2023年に完成したばかりの、新築ピカピカの村役場だ。その前には、騎馬武者姿の楠木正成像があった。皇居前広場にも騎馬武者姿の楠木正成像。あれとよく似たものが、正成のふるさと・千早赤阪村にももちろん鎮座しているのだ。
村役場の前を抜けてゆくと、ほどなく中心市街地だ。密集度が高い、なんてことを言ったが、それはもちろん他の村と比べてのお話。数万人の人口を抱えるどこぞの都市の中心市街地と比べたら、圧倒的にのどかな町だ。
そうした中にも自動車整備工場の類いがあったり。公共交通に恵まれない山の中の村だから、クルマへの依存度は高い。自動車整備工場は、欠くことのできないインフラなのだ。
中心地から脇道に入って進んでゆくと、郷土資料館や「くすのきホール」と名付けられた文化施設、また道の駅などが集まっている一角に出る。その一角にあるのが「楠公誕生地」。楠木正成の生まれた場所である。
本当に楠木正成がこの場所で生まれたかどうか、となると心許ないところもあるが(というより生年や誰の子かなど、確たることは諸説あってわかっていない)、少なくともいまの千早赤阪村の中心地一帯に拠点を置いていたことは間違いなさそうだ。
歴史の表舞台に登場するのは後醍醐天皇が倒幕の動きを明らかにしてからのこと。1331年に笠置に入った後醍醐天皇に従うようになり、正成は赤坂城に立てこもって幕府軍を迎え撃った。
その赤坂城は、千早赤阪村の中心地から南側、金剛山の裾野にある。赤坂城は奮戦むなしく幕府軍に落とされるが、正成はその後再起。赤坂城を奪還し、さらに山の上の千早城に籠城し、幕府軍を釘付けにして戦った。
その間、足利尊氏や新田義貞ら、幕府の有力御家人が幕府に反旗を翻し、鎌倉幕府が滅亡する。つまり、その大きなきっかけを作ったのが、楠木正成というわけだ。