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岡本弁護士に強い衝撃を与え…「可能性を信ずるに至りました」

〈裁判で検察側は「満州事変」=1931(昭和6)年=以降の日本の戦争行為が1928(昭和3)年に締結され、日本も批准したパリ不戦条約に違反すると主張した。これに対し、弁護側反証段階の1947(昭和22)年3月3日、東郷茂徳・元外相(禁錮20年)担当のアメリカ人弁護人ブレークニー陸軍少佐は「原爆投下は『毒』などの兵器の使用を禁じたハーグ陸戦条規=1899(明治32)年締結=違反」と反論。アメリカの原爆投下決定までの経緯を報じた雑誌記事などを証拠申請した。オーストラリアのウエッブ裁判長が趣旨をただずと、ブレークニー少佐は、原爆投下から戦争終結(9月2日)までの間の日本の報復の権利を指摘。裁判長も「検討の要がある」とした。しかし、イギリスと中国(中華民国)の判事に注意されると休憩を宣告。再開後、「多数決」として申請を却下した。〉

 岡本弁護士には強い衝撃として残っていたのだろう。ともに原爆裁判の原告代理人となった松井康浩弁護士は『原爆裁判 核兵器廃絶と被爆者援護の法理』(1986年)で「原爆訴訟の提起を決意するに至った岡本弁護士の動機は東京裁判であり……」と述べている。同書とその前の著書『戦争と国際法』(1968年)などによれば、日本が独立した翌年の1953(昭和28)年2月、岡本弁護士は「原爆民訴或問(わくもん)」というパンフレットを広島、長崎の弁護士に送って協力を求めた。原爆裁判を提起する法的可能性を問答形式でまとめた内容で、その前文で心情を吐露していた。

「私は昭和21年6月から2年有半にわたり、東京における極東国際軍事裁判に主任弁護人の1人として参加していました。その間、終始私の頭にありましたことは、戦勝国側の極めて重大な国際法違反が、勝てるがゆえに、何らその責任を問われない不公正でありました。しかし私は、講和条約が発効した暁には、戦勝国側の指導者から、広島・長崎に対する原爆投下については、悔恨の情を披瀝ひれき)されるであろうと、心ひそかに期待し続けてきたものであります。しかるに、それより既に1カ年を経た今日において、いまだかかる言葉の片鱗だに聞くことを得ないのであります。
 

 私は当時から、講和条約が発効した後においては、少なくとも広島および長崎に対する原爆の投下については、この責任を民事不法行為の面において取り上げて、原爆投下の決定に参与した指導者らおよび国家に対して不法行為の管轄裁判所に対し、提訴いたしたいと念願し、これを盟友にも語ってまいりました。昨年、講和条約発効後、この念を新たにし、これについて研究を続け、結論として、この訴訟が米国および英国、特に米国の法廷において遂行せらるる可能性を信ずるに至りました」

*披瀝=本心をつつみかくさず話すこと

「雲野」のモデルになったと思われる、岡本尚一弁護士(『法廷風景:歌集』より)

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 保守的で正義漢だったという岡本弁護士は、歌集も出した歌人でもあった。「東京裁判の法廷にして想なりし原爆民訴今練りに練る」「夜半に起きて被害者からの文読めば涙流れて声立てにけり」……。