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 広島の「原爆被害者の会」に原告となる被爆者探しを依頼、快諾を得た。しかし、「弁護士会の動きは必ずしも情熱的とはいえず、国の内外の反響もかんばしいものではなかった。それにはいろいろな事情が挙げられようが、主として日米親善の障害とならないか、そのような裁判が理論的に成立するかの2点にあったと言い得るであろう」(『戦争と国際法』)。

「雲野」(右)と、「岩居」(NHK『虎に翼』公式Xより)

 岡本は人権侵害を救済する国際団体で日本では1947年に設立された「自由人権協会」に持ち込んだ。当時協会の理事長だったのが海野普吉(しんきち)。松井弁護士は「私は1951(昭和26)年に弁護士となり、この協会に所属して、国民の自由と人権を守るための弁護士としての仕事をしていたので、岡本弁護士とこのことで協議する機会を得たのであった」と『原爆裁判』に記している。ドラマでは「雲野」と「岩居」(演:趙珉和)という弁護士に該当する。

広島生まれ、一面がれきの光景を目の当たりにしていた松井弁護士

 松井弁護士は広島県・佐木島(現三原市)生まれ。弟や叔父が広島原爆で被爆。自身も学徒出陣から復員した1946(昭和21)年3月、通過する列車から被爆7カ月後の、一面がれきの広島を目の当たりにしていた。

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被爆1年後の広島(「サン写真新聞」より)

 難問は山積していた。当初は「原爆民訴或問」にあるように、アメリカの法廷でアメリカ政府や当時のトルーマン大統領を相手どった裁判を考えていたが、「アメリカの法曹関係者は極めて冷淡であるばかりでなく、法と政治を混同した感情的な非難をさえ加え、頼りにしていた国際人権連盟議長ボールドウィンも昭和29(1954)年3月、『この訴訟は法律的に根拠がなく、また日米関係に有害と考えるので、全面的に反対である』と言ってきた」(『戦争と国際法』)。

 ボールドウィンはアメリカ自由人権協会の創立者で、日本の同団体設立を進めた人物だが、アメリカ政府にも近かったようだ。岡本と松井の落胆は大きかったが、これには当時の社会情勢も関係していたと考えられる。