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日本の法廷で日本政府を訴えることに

 冷戦が激化し、アメリカとソ連(当時)の核軍拡競争が続いていた1954年3月、静岡県焼津市のカツオ・マグロ漁船「第五福龍丸」が南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に伴う“死の灰”を浴び、被爆した乗組員の1人が死亡する事件が発生した。戦後まだ9年足らず。占領期は原爆報道が厳しく規制され、独立後も、原爆被害の実情は広島、長崎以外の国民にはほとんど知られていなかった。

 この「第五福龍丸事件」をきっかけに、東京・杉並を「震源」として原水爆禁止運動がスタート。アメリカ側は日本国民の対米感情の悪化を危惧していた時期だった。2人のアメリカ人弁護士が訴訟代理人に名乗りを上げたが、弁護士費用が多額で結局、アメリカでの提訴は断念。日本の法廷で日本政府を訴える方針に転換した。

国を相手どった原爆被災者による損害賠償請求

 1955(昭和30)年4月25日、提訴。広島の地元紙、中国新聞は「原爆被災者 国を相手どる 広島・長崎の三名 損害賠償を請求」と社会面4段で次のように報じた。

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 広島原爆の被害者、広島市中広町(現西区)、下田隆一さん、同市皆実町(現南区)、多田マキさん、それに長崎原爆の被災者、東京都新宿区若葉町の浜部寿次さんの3人は25日、国を相手どって損害賠償請求の訴訟(下田さん30万円、多田さん、浜部さん20万円)を東京地裁に提起した。原爆被災者が国を相手どって損害賠償の請求を行ったのは今度が初めて。

 

 訴状によると、日本がアメリカと平和条約を結んだ際、同条約19条で、戦争によって生じた一切の損害賠償権を放棄したが、これは憲法第29条による「個人の私有財産は正当なる補償のもとにこれを公共のために用いることができる」との規定に基づいたものと考えられる。従ってこの場合は、当然国家が個人の受けた損害を賠償すべきである、となっている。

原爆訴訟の提訴を伝える中国新聞

「多田マキ」は本人が書いた手記などでは「マキ子」となっている。この記事のすぐ上には「ついに四人目 原爆症で死亡」の記事が。まだ原爆の影は色濃く被爆地を覆っていた。提訴の記事は短いが、『戦争と国際法』によれば、裁判の焦点は3つだった。