政界の大物と交流し予言を披露

『凡人非凡人』も「霊界に満足せず、好んで政客と交わり、常に帷幄(幕舎)で画策するのを喜んだ。世間に現れている政客で、おそらく吉三郎の訪問を受けない者はなかったろう。犬養毅(首相)、尾崎行雄(東京市長)、大石正巳(農商務相)、渡邊國武(蔵相)、後藤新平(東京市長)、曽根荒助(韓国統監)、原敬(首相)……。みな吉三郎の脳中に往来した人物であった」と述べる。

 足尾鉱毒事件で知られる田中正造の『義人全集第5編』(1925年)には、正造から吉三郎宛ての書簡が数通収録されており、交流があったことが分かる。

田中正造。明治時代、日本初の公害事件とされる「足尾鉱毒事件」の解決に奔走した政治家 ©文藝春秋

 吉三郎は会う人に「神託だ」と言って予言を披露した。頭から信じない人もいたが、中には予言を信じ、吉三郎に何かを期待する人もいた。特に深く接近したのは長州閥の人々だった。のちに内務省警保局長を務める古賀廉造に人の紹介で会い、彼から陸軍大将で内務相兼文相の児玉源太郎を紹介された。

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「飯野は児玉と会うとき、水ごり*をとって心身を清め、匕首(ひしゅ)(短剣の一種)を懐中にしていた。安楽いすでたばこをふかしている児玉の前に身を寄せ、懐中から匕首を出して児玉の眼前に迫った。児玉のギョッとした顔を見てニッコリとして身を引き、初めて初対面の挨拶をした。このようなやり方は飯野の常套手段であった」(『史談裁判第4集』)。
*水ごり= 神仏に祈願する時、冷水を浴びて汚れを除き心身を清浄にすること

日露戦争開戦にも関与?

 のちに恐喝事件の担当検事は「飯野は、ことにこの手段を用いて、常に人に慴伏(しゅうふく)(=ひれふし恐れさせる)してこれを屈服させることが巧み」と語った。児玉もまた吉三郎を信用し、資金を提供した1人だった。

児玉源太郎。日露戦争で「満洲軍総参謀長」として従軍した明治時代の陸軍軍人・政治家(出典:国会図書館「近代日本人の肖像」)

 日露戦争(1904~1905年)で児玉は満州軍総参謀長として従軍したが、その際の戦術に吉三郎の霊感による予言を生かしていたという、信じられないような話がある。

 吉三郎と親しかった押川方義は、息子の押川春浪が発行していた雑誌「武侠世界」1918(大正7)年2月号に「飯野は愛国者である」という文章を寄稿している。その中で、日露開戦に躊躇していた児玉に、吉三郎は「今度の戦争は到底避けることができない。しかし、わが軍は勝利をもって終わりを結ぶことができる」と告げ、それによって児玉は決心を固めたと述べている。

「日露開戦後、飯野は児玉とともに満洲(現中国東北部)に渡り、児玉が物事の取捨、進退に迷った時、飯野はそばにあって常に霊動によって児玉に決定させるようにした」と押川は書く。