過熱するスキャンダル報道
下田歌子は現在では実践女子大学の創立者として知られるが、明治、大正を通じた女性教育の先覚者で、皇室にも強い影響力を持ったことで知られる。『日本近現代史辞典』(1978年)にはこうある。
美濃・岩村藩士の娘。本名・平尾鉐(せき)。1872(明治5)年より宮中に奉仕し、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)から「歌子」の名をもらった。1879(明治12)年に女官を辞めて下田猛雄と結婚したが、夫が死亡し、1881(明治14)年に私立「桃夭女塾」を開いて華族の子女の教育に当たった。
1884(明治17)年に再び宮内省(当時)に入って華族女学校の設立に当たり、続いて同校の教授、学習院女学部長などを務め、1907(明治40)年まで在職した。この間、欧米に出張。皇族子女の教育に当たり、「愛国婦人会」会長なども務めた。
宮中から離れても、貞明皇后(大正天皇の皇后)らからたびたび相談を持ち掛けられるなど、強い影響力を持っていたとされる。才媛と美貌で知られ、真偽は定かではないが、若いころから男性のうわさが絶えなかった。相手は伊藤博文、井上毅(憲法起草者)、土方久元(宮内大臣)らそうそうたる顔ぶれ。13歳年下の吉三郎もその1人だった。
1907年2月、幸徳秋水らが出していた日刊平民新聞は「妖婦下田歌子」のタイトルで数々の男性遍歴など、彼女のスキャンダルを延々と掲載。発禁処分を受けるまでつづき、連載は計41回に上り、センセーションを巻き起こした。吉三郎が「大逆事件」発覚の端緒を作ったのは、その復讐だったという説もある。
報知は1月13日発行14日付夕刊では「『飯野さんは偉大な精神家』 破倫の神様を信ずる女流教育家 下田女史」という記事を載せた。どこで取材したか分からないが、下田歌子に吉三郎をどう見ているかをこう語らせている。
「飯野さんとは岐阜県の同郷人として、またあの人の夫人・末子さんは華族女学校当時の教え子の関係で同家とは親しく往来していますが、それ以上の関係について弁解するのも無用です。もちろん、飯野という人は常人の及ばぬ偉大さを持っているのです」




