極め付きは14日付朝刊の記事。「下田女史と怪行者が魔の殿堂で対策密議 きのふ(う)裏門から訪れ二時間に亘つ(わたっ)て」の見出しで「穏田の裏門口からひそかに帰る下田歌子女史の幌車」の写真付き。「現場を押さえた」というところだろうか。記事はこうだ。
怪行者・飯野吉三郎に係る傷害・詐欺の告訴事件を導火線として怪物積年の罪業が暴露され、官界、政界、実業家、婦人界の裏面に波及して、さすがの怪行者も懊悩の極に達した。下田女史と魔の殿堂・穏田邸で額を集めて善後策に腐心するに至った。13日午前、幌を深く垂れた一台の人力車が穏田・飯野邸の裏門に梶棒を下ろし、密談2時間ののち、再び天日をはばかってコッソリ幌車で去った。それが下田女史だった。密議で得た秘策は何、そしていずれの方面にいかなる形となって表れ出るか。
記者が“ベタ張り”したのだろうか、いまのテレビのワイドショー並みの“密着”ぶりだ。
ついに起訴されるも…
吉三郎は病気なども理由にしてその後も召喚に応じず、「怪行者を葬れ」と訴えて2000人を集める演説会が開かれるなどした。
そして1月27日。「飯野つひ(い)に出頭す たゞ(だ)し一時間で帰る」(28日付報知朝刊見出し)。医師と弁護士を連れて午後1時半に出頭し、病気として1時間取り調べを受けて帰った。
29日には警視庁捜査課長が穏田を訪れて約5時間、出張尋問。この間、衆議院予算委員会で憲政会の中原徳太郎議員(のち同党幹事長)が「穏田の行者問題」として政府に「知名の士が多数この行者と関係があるように新聞に出ているのは綱紀上よろしくない」と質問するなど、騒ぎは広がった。
3月11日、ついに傷害教唆の罪名で起訴。事件は予審に付された。
ところが。事件発覚から2年たった1927(昭和2)年1月9日付東朝には「三年經(経=た)つても芽をふかぬ裁判」の記事が――。足かけ3年経過しても捜査が難航して予審が終結しないと報じた。
さらにそれから1年余りの1928(昭和3)年5月12日、大和民労会メンバーら5人が暴行傷害などで公判に付されたものの、吉三郎については証拠不十分で免訴に。「大山鳴動してネズミ5匹」というのか、それともそもそも大山ではなかったのか――。高田秀二『物語特ダネ百年史』(1968年)は報知の報道について触れている。






