当時、大正天皇の病気は公になっており、皇太子(のちの昭和天皇)は対人関係に問題があるとされ、その是正のために外国視察を求める声が多かった。母親の貞明皇后は反対で、下田歌子を通じて吉三郎の「神託」を聞かせたが、その吉三郎は首相である原に意向を尋ねてきたということだろう。吉三郎と下田歌子がいかに皇室に深く食い込んでいたかがうかがえる。

(左から)昭和天皇、貞明皇后、秩父宮、高松宮 ©文藝春秋

時代が生んだトリックスター

 吉三郎を塀の向こうに追い落とそうという意図は不発に終わった。しかし、吉三郎の「栄光」はそれ以降、一気に陰りを見せる。コケ脅しやスタンドプレーで人を引き付けてきた人間が、同じような手口で没落させられたということになる。やがて新聞に名前が載ることもなくなり、わずかに1937(昭和12)年1月27日付朝日朝刊に「盡(尽)きぬ怪気炎」という記事が写真付きで見える程度だ。

日中全面戦争前、怪気炎をあげる吉三郎(東京朝日)

 太平洋戦争末期の1944(昭和19)年2月3日、穏田の屋敷で急性腹膜炎のため死亡した。78歳だった。かつての声望をしのばせたのは2月8日付朝日朝刊に載った死亡広告。友人総代として右翼の大物・頭山満、ほかに元内務大臣の水野錬太郎、元陸軍中将・柳川平助、元司法大臣・塩野季彦の名前が並び、葬儀委員長は日独伊三国同盟を推進し戦後A級戦犯となった白鳥敏夫だった。

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吉三郎の死亡記事(朝日)

 飯野吉三郎はどんな人物だったかと考えると、やはり時代と切り離しては理解できない気がする。日本が明治以降、目に見えて近代化していく中で、人々は未来に期待を抱きつつ、心の奥では、消えていく古いものにあこがれ、懐かしく感じる気持ちが広がっていた。それは近代化に従っていくことに対する後ろめたさだったのだろう。背伸びを続けた挙げ句、突入した日露戦争は、まさに神頼みをしたくなる薄氷の勝利だった。

 吉三郎はそうした時代を覆う空気に付け込んで「霊力」を発揮。隠然たる勢力を広げて500万円(現在の約79億円)ともいわれる財を成した。しかし、時代は動いていた。昭和に入って、政治家も軍人も近代的・合理的な人物が力を持ってきたとき、彼は古びて不必要な存在になっていた。結局は時代がこうしたトリックスターをつくりだしたといえそうだ。

【参考文献】
▽横山源之助『凡人非凡人』(新潮社、1911年)
▽『廃娼同盟会演説集 正義の反響』(廃娼雑誌社、1890年)
▽森長英三郎『史談裁判第4集』(日本評論社、1975年)
▽田中貢太郎『明治大正実話全集第7巻』(平凡社、1929年)
▽橋川文三編著『日本の百年4 明治の栄光』(筑摩書房、1978年)
▽神崎清『革命伝説 爆裂弾の巻』(中央公論社、1960年)
▽『東京名所図絵 西部之部』(睦書房、1969年)
▽『日本近現代史辞典』(東洋経済新報社、1978年)
▽高田秀二『物語特ダネ百年史』(実業之日本社、1968年)
▽『原敬日記』(福村出版、1981年)

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