「女性の数は3000余り」

 彼女たちの数は都下だけで三千余に達し、有楽町界隈から上野、池袋、渋谷、新宿、品川、そして大森、蒲田と、さらに郊外の社線(私鉄)の駅々にその職場を広げていき、小学校の女生徒が赤いルージュ(口紅)をつけてパンパンごっこをするまでになった。

 

 こうした風景は都心ではラク町が始まりだったろう。二百名余の彼女たちはここを戦場とし、客を拾うと、省線で上野、池袋方面のホテルへ行くか、または安直に、解放された宮城前の芝生で戯れるのだ。

 

 ラク町の女は都内の闇の女たちの中でも高級であり、服装などもよかった。品川あたりの女たちが200円(この時期の物価変動は激烈で、1947年とすれば現在の約3800円)ぐらいで売買している時、ここでは500円(同約9000円)から1000円(同約1万9000円)は取った。月収2~3万円(同約37万7000~約56万6000円)にはなったのだが、最近では下り坂のようである。

「パンパン遊びをする子どもたち」というが……(『敗北を抱きしめて』より)

 有楽町は日本一の盛り場・銀座にも、丸の内に置かれたGHQ本部にも近いことから、そこを根城にする女性たちも“最高級”とみなされたのだろう。「好色東京地図」が出たのは1947年9月だが、『朝日年鑑(1947年版)』は次のように記述する。

「全国に瀰漫(びまん)する闇の女は1万8000名(推定)と目されているが、その58%は無職者で、残り42%が有職者」「生活難から、もしくは好奇心からというのが多い。しかも、半数は両親と同居している」。
*瀰漫=広がりはびこる

 さらに『毎日年鑑1949(昭和24年版)』は、1947年5月の6大都市の「闇の女」を「推計総数は約4万人。年齢はなんと7歳から始まって45歳までで、中でも18歳から24歳までが圧倒的に多い」と記している。

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 女たちの職業については雑誌「新聞記者」1946年5月号掲載の「夜の女の解剖」に詳しい記述がある。「無職81、ダンサー58、慰安婦17、料理店女中9、女給5、事務員5、芸妓3……」。

「夜の女」になった原因は?

 大谷進『敗戦日本の縮図 生きてゐる』(1948年)は東京・上野の地下道で取材。「女たちが転落した原因」を次のように分けている。

▽戦災孤独 圧倒的に多いのは、なんといっても戦災により身寄りを失った者である。勤めるに身元確実でなく、住むに家なく、心に支柱なく、人混みの上野地下道を徘徊するうち、最後のものを金に替える境遇に落ちていく。パンパンガールの出現は、戦争の惨禍に十分の原因を持っている。

 

▽引き揚げ 敗戦後、内地に引き揚げてきた女。既に戦後の混乱がやや静まろうとし、反対に経済的な事情がますます逼迫するとき、ほとんど着のみ着のままで外地から引き揚げてきてみれば、住むに家なく、尋ねる人も不明といった女が多い。

 

▽家出 家庭の不和、生活の逼迫、退廃の都会ふうへの憧れ、恋愛の失敗による悲観などの原因で家出をした女。上野へ彷徨してくるうち、不良にだまされ、誘惑され、捨てられて、着物まで取られ、夜の女に転落する者が多い。

 

▽料飲店閉鎖による従業員、接客婦の転業 いったん自堕落な風習が身に染みた彼女たちは手堅い職業に就くことを嫌い、安易で収入の多い夜の女へ。

 

▽ダンサー ダンサーから夜の女へ。あるいはダンサーをやりながら夜の女を副業とする女たち。

 

▽不良少女 「ズべ公」は体は売らないが、猟奇と金欲しさから不良少女から夜の女に転落する者も多い。

 

▽元娼妓 新吉原、玉ノ井などのほかに特殊喫茶の接客婦になる者を除いて、街娼としてさまよう者も相当ある。

 

▽会社員その他 堅気の娘が生活費、養育費欲しさに上野へ現れること。終戦後の一昨年(1946年)2月、品川の旅館・ホテルの一斉検挙の際は人妻、良家の子女らが数多く挙げられてのち、一時堅気の者は絶えた傾向だった。特に上野には最近、会社員ふうの女が目立つ。彼女らは(警察の)尋問に対して、ちゃんと通勤のパス(定期券)を示す。身分証明書も持っている。そして「ただ人と待ち合わせている」と述べるだけだ。

上野で客と駆け引きをする「夜の女」(「サン写真新聞」より)

 一方で彼女らをめぐる搾取もひどい実態だったようだ。広島にも「パンパン」がいたが、地元紙、中国新聞の1949年3月28日付には、売春の収入9000円のうち8000円が周旋屋にピンハネされ、女性の取り分は1000円だったという「浮ばれぬ夜の女」という記事が見える。