「戦争の最大の被害者」

「パンパン」が消えたのはいつごろかははっきりしない。ただ、警察の取り締まりに加えて、1950年に始まった朝鮮戦争による特需で日本の景気が上向いたことと、1952年の日本の独立が決定的だったのは間違いない。「闇市と浮浪児と闇の女と――。終戦後の三題噺(3つの題材をもらって即興で作る落語)として欠くことのできない風俗である」と『朝日年鑑(1947年版)』は言うが、当時から論議は当然あった。

 検挙が始まった直後、1946年2月1日付読売報知の1面コラム「點(点)晴」は「『夜の女』だか『闇の娘』だかを検挙して、それで『社会』の風紀が改まるなどと考えたら大きな間違いだ。警察は相変わらず、彼女たちを邪道に走らせたのは『恋愛至上主義』と『家庭の放任主義』だなどと宣伝しているが、原因はもっと深刻なところにある。食えなくなれば親も売らねばなるまいし、詐欺も強盗もせずにはいられなくなる。それが人間というものだ」と指摘した。

「検挙では風紀はおさまらぬ」と説いた読売報知のコラム

 同年6月24日付読売でのちに九州大教授などを務めた教育心理学者、牛島義友は「今日、街で醜行をさらし、識者のひんしゅくを買っている娘たちも、去年までは軍国の娘であり、純真な挺身隊員であった。彼女たちは戦争傍観者でも、時局便乗者でも、戦時利得者でもなかった。それだけに、敗戦によって一切の目標を見失い、破滅のどん底に叩き込まれた者である。娘たちこそ戦争の最大の被害者である」と言い切った。

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昼間の有楽町の街角で話し込む2人の「パンパン」(「サン写真新聞」より)

 ジャーナリストの山崎英祐は雑誌「婦人ライフ」1949年4月号の「夜の女はなくなるか」で、「単なる享楽的なものより経済的、社会的原因が多い」とし、「政府は取り締まるだけでなく、原因を除くことを考えねばなるまい。厳罰主義よりも、教育と厚生施設の拡充を図ることである。職業を教える指導所をつくるとか、病気を治す収容所をつくってやることである」と提言した。