21歳元看護師の衝撃的な告白〈おにぎり4つで……〉
顛(転)落するまで (東京世田谷 長谷乙女)
私はこの3月中旬、奉天(現瀋陽=中国東北部)から引き揚げてきました。着のみ着のまま、それこそ何一つ持ってこられなかったのです。私は21歳です。奉天では看護婦をしておりましたが、今も免状だけは持っております。東京に着いたものの、誰を訪ねて行けばよいか、行き先がありませんでした。本籍は福島ですが、両親はなく、遠い親戚がいるとのことですが、どうなっているか分かりません。だから、東京で働くよりほかに方法がありませんでした。
やっと他人さまのお世話で女中奉公の働き口が見つかり、やれうれしやと思ったのもつかの間、そこは待合*であったのです。けれども、待合であろうと何であろうと、食べていくことができるのですから一生懸命働きました。ところが、2週間ぐらいたったら、そこの女将(かみ)さんから「芸者になれ」と勧められました。しかし、私は三味線を弾けるでもなし、歌えるのでもないので断りましたが、女将さんは「それで結構だよ」と言って、それよりもっと嫌なことを押し付けようとしました。私は驚いて、即座にその家を飛び出しました。風呂敷包み1つ持って……。
けれども働き口はありません。乏しい金もなくなったので、旅館を追われ、上野の地下道に来ました。ここを寝所にして働き口を探しましたが見つからず、何も食べない日が2日ほど続きました。すると3日目の夜、知らない男がにぎり飯を2つくれました。私はそれをむさぼり食べました。その方は翌日もまたおにぎりを2つ持ってきてくれました。そして、話があるから公園まで来てくれと言いました。私は付いて行きました。その日はたしか6月12日だったと思います。それ以来、私は「闇の女」と人からさげすまれるような商売に落ちて行きました。
*待合=貸席業のこと。主に客と芸者が遊興する
清水みのる、利根一郎の作詞・作曲で
仮名らしい「東京世田谷 長谷乙女」の告白はどれだけの読者の心に届いたのだろうか。ヒット曲『かえり船』(歌:田端義夫)で知られる作詞家、清水みのるは「私はこれを読んで、いいようのない圧迫感を感じた。ぐっと胸にこみあげてくるものがあった」「じっとしていられない感激の衝動とでもいうのか、とにかく私は抑えることのできない詩情に動かされていった」と「“星の流れに”のメモ」(「歌謡文芸」1948年11月号所収)に書いている。
清水はその夜更けに床の中でノートにメモし、それをふところに翌日夜遅くまで、上野地下道やその付近をうろついた。アパートに戻ってきた「その夜、一気に書き上げたのが『星の流れに』の一篇である」(同文章)。作曲家、利根一郎も上野地下道を巡って曲を作った。
長田暁二『戦争が遺した歌 歌が明かす戦争の背景』(2015年)によると、はじめは「ブルースの女王」淡谷のり子に歌ってもらおうとしたが、淡谷は「夜の女の仲間に見られるような歌は歌いたくない」と拒否。菊池章子に白羽の矢が立ったという。
