「市場にモノがあふれ、消費されない、買ってもらえない、つくっても利益が取れない。薄利多売に拍車がかかっていった」
寺一では、2000年代に入ると1社あたりの発注額は100万~200万円の単位に激減し、受注件数を増やさなければ回らない状態になった。原材料価格の高騰などが続くが、小売店がその分の値上げをのむわけではない。利幅は圧迫されていく一方だった。
父・清美さんがいよいよ廃業を決意したのは2004年。ところが入れ違いに、思いもよらないところから新規の案件が舞い込んできた。当時、まだあまり世に出ていなかった「ネックウォーマー」の製造依頼が近所の手袋メーカーから入った。これによってしばらくの間、会社は延命されることになるのだが、薄利多売経営の根本が解消されたわけではなかった。
突然の父の死と痛感した「数字の現実」
そんな延長戦のさなか、突然不幸が襲った。2010年5月、父・清美さん(当時62歳)が突然倒れて病院に運ばれ、たった2日で亡くなってしまったのだ。心の準備もないまま、新一朗さんは直後から経営を引き継ぐことになった。36歳だった。事業が続けられるのか。この時改めて経営の数字と向き合い、現実を突きつけられたという。
「とにかく作るものがあればいいんだけど、仕事が止まったらもうお金が入ってこない。人も不足し、原材料も高騰しているのに、単価は上がらない。これ以上続けるのは厳しい。原料の糸から自分たちで起こして、自分たちでものを作る、そんな商売を始めないといけないと思うようになりました」
新一朗さんに経営権が移るのと同時に、受注件数はそれまでの半分にまで落ち込んだ。発注元のほとんどが香川県内のメーカーや卸業者で県外に営業ルートを持っていない。「父親の顔」で仕事が成り立っていた証拠だった。
だが、こうなってむしろ、やるべきことは明確になった。営業に向かったのは、大阪・東京の大都市。狙いは有名ブランド製品の仕事だった。人の紹介を通して知り合った卸業者にメンズ向けファッションアイテムとして「スヌード」(筒状のネックウォーマー)を提案すると、大手アパレルメーカーが採用。百貨店の常連ブランドの製造受注にこぎつけた。デザインのセンスや色の使い方、品質に対する要求の高さなど、ここで得た経験の一つ一つが、オリジナルの商品開発に向かう布石になったのだという。