最も象徴的なのが、低価格のカジュアルウェアを売りにした「ユニクロ」の台頭だった。会社を手伝うようになっていた新一朗さんは「あの時の脅威は、今も忘れられない」という。
「当時の一般的なセーターの価格が3900円、少し質の良いものだと4900円くらいでした。ところが、ユニクロさんの1900円のフリースが爆発的に売れ始めて、目に見えて影響が出てきた。
「大したことない」はずのフリースが突きつけた現実
最初はいかにも中国製で、大したことないと思っていたのに、年を追うごとに、月を追うごとにクオリティーがどんどん良くなっていく。こちらはやってもやっても赤字で、どう考えても勝てないんですよね。他の安価な中国製品も入ってくるようになり、10年くらいであっという間に状況が変わりましたね。あぁ、これは無理だなって。会社を畳んでしまおうかと、親父は考えていました」
当時のフリースの勢いとは、どれほどのものだったのか。杉本貴司『ユニクロ』(日経BP出版)によると、ユニクロが旗艦店となる原宿店をオープンさせたのが1998年11月末。その年の冬にフリースが飛ぶように売れて1999年8月期の売上高は初めて1000億円を突破した。その年の冬には850万枚を売り、翌2000年8月期は売上高が2倍に。次の冬には2600万枚、2001年8月期は売上高4185億円に達した。「たったの2年間で売り上げ規模が4倍に膨れ上がったのだ。まさに爆発的な伸びである」(P250)。
アパレル企業が商品を企画し、仕様に沿った製造を縫製工場に委託する「加工賃商売」は、業界構造の典型だ。新一朗さんによると、2000年代はじめ頃まではまだ、大手企業に体力があり、発注額ベースで1社あたり6000~7000万円規模。縫製の請負工場も年間1~2社の受注で商売が成立していた時期もあったという。
モノがあふれ、消費されない、買ってもらえない
だが、ユニクロの台頭に反比例するかのように、1社あたりの発注ロットがみるみる減少していった。国境を越えて経営資源を獲得するグローバリゼーションの波がやってきたのだ。価格破壊を競うように、製造拠点を労働力のより安い海外に求め、商品企画と製造、販売が効率化・一体化していく流れが加速していった。工場自らが東南アジアに拠点を設け、生産受託の受け皿となる動きも活発になった。