これまで寺一が経験してきたことは、日本各地の「産地」で起きたことに重なるかもしれない。同業他社が廃業に追い込まれる中、寺一はいかにして会社存続に道をつないだのか。それを知るためには、創業の歴史、そしてアパレル市場を席巻した「ユニクロ」が国内業界にもたらしたインパクトについて振り返らなければならない。
寺一の事業は1937年、新一朗さんの曽祖父にあたる寺井千五郎さんがロープの製造を始めたころにさかのぼる。戦時色が強くなるにつれ、軍事物資としてのロープが必要とされるようになり、原材料となる麻植物の栽培が奨励されるようになった。
「この近くの山一帯に、ジンケンやマオランと呼ばれる繊維の原料があって、人海戦術で刈り取っていたそうです。それを川で洗って干して、撚(よ)ってという感じでロープを作っていたらしい。当時、この地域ではうちがけっこう繁盛していたほうだとか。近くの小学校に綱引きの綱を寄贈したこともあったそうです」
地元の一大産業を襲った「ユニクロ」のインパクト
東かがわでは、明治時代後期から手袋の製造が始まり、現在も日本一の産地として知られている。終戦から12年後の1957年、新一朗さんの祖父で2代目の寺井正さんが手袋の製造を始めた。東京の三越に直接商品を卸し、テレビドラマで俳優が着用する衣装に使われるなど、品質の高さが評価されていたという。だが次第に海外の安価な商品が入るようになり、80年ごろからは、セーターの製造に転向した。
83年に父・清美さんが3代目を引き継いでからは、年間10万枚のセーター製造に加え、赤ちゃん向けのスパッツが累計10万本を出荷してヒット。その儲けで先代の時代から設備投資で抱えていた借金の返済に充てることができたという。だが、それも長くは続かない。ここから2000年代はじめごろまでの20年にわたり、寺一は流行の波とは性質の異なる、流通構造の劇的な変化を目の当たりにすることになる。