藤井聡太名人に永瀬拓矢九段が挑戦する第83期名人戦(主催:毎日新聞社・朝日新聞社・日本将棋連盟、協賛:大和証券グループ)七番勝負は、第1局から藤井が3連勝した後、5月17日・18日に大分県宇佐市の宇佐神宮で第4局が行われた。永瀬は後手番で千日手に持ち込み、指し直し局も敗勢になりながらも粘りに粘り、名人戦初勝利をつかんだ。
その4日後、永瀬は第66期王位戦の挑戦者決定戦で佐々木勇気八段に勝利し、こちらでも藤井聡太王位への挑戦権を獲得した。永瀬は打ち上げにも参加し、機嫌良く談笑し、たくさんの中華料理をぺろりと平らげた。
第4局、永瀬の粘り
指し直し局について、永瀬に2つのことを聞いた。
1つは67手目、敵陣で永瀬の金が孤立していた局面だ。持ち駒に飛車しかないため、金が取られそうという厳しい状況だった。普通のシナリオなら香を捨てて歩を入手し突撃するところだが、永瀬は55分もの大長考の末、じっと8筋の歩を突いた。これは金を救出するためだけの一手だった。「よく辛抱できましたね」と私が尋ねると、永瀬は「投了級に悪いと思っていましたが、まだ中盤なので投げるわけにはいかない」と答えた。
この永瀬の粘りが、その後、藤井の判断ミスを誘うことになる。進んで92手目、永瀬が2三に飛車を成った局面だ。藤井の玉は竜に近い4二に位置し、3一の金が守っている。ほとんどの棋士は△2二歩と打って竜を追い払う手を指すだろう。永瀬も「△2二歩と打たれて悪いと思いました」と語った。やはりそうだったのだ。
藤井らしからぬ見落としで、逆転を許す
しかし、藤井が選んだ手は、先手陣に歩を垂らす手だった。先手玉の守りである金取りに桂を打つなど、直接的な手ならまだわかる。とはいえ、この手は、次に歩を成らないと効果がない。敵の竜をそのままにして相手に手を渡すなど、通常では考えられない。自玉近くに竜がいるのは怖い。藤井は「怖い」とか「危ない」といった感情を盤上では排除しようとしている。
私は以前、藤井将棋について「怖いとか筋が悪いとかといった、『人間的な感覚』を徹底的に排除しようとしている。もうすぐアンインストールが終わりそうだ」と記した(第72期王将戦七番勝負で羽生善治九段と戦った際。〈「あー、こっちの人ですかあ」羽生善治九段の擬人化した表現に、藤井聡太王将も思わず笑った〉より)。つまり、歩の垂らしは「藤井だからこそ指した」悪手なのだ。