――勉強のため聴けるような、弁士の録音みたいなものはなかったんですか。
坂本 一応はありますけど、そもそも音声がない映画に説明をつけるのが活弁だったわけですから、活動写真館でのライブ盤みたいなものはないんですよ。いま残ってるのは、戦後に開催された懐かしの活弁大会みたいなので、その頃にはもう活弁をやってなかったような人たちが久々にやったのを録音したのとか、そういうものしかないわけです。それがもう昭和20年代ですからね。その時点で「懐かしの活弁」って言ってたものを、私どもは平成に入ってから着手したわけですよ(笑)。
水木しげる先生の自宅を訪問して押しかけ弟子に
――どうしてそこにたどり着いたのか気になりますね。
坂本 子ども時代から落語とかは好きだったんですが。それは生まれ育ったのが西日暮里だっていうのもあるのかもしれませんけどね。周囲に芸人が結構住んでいたり、年寄りが多いし。でも一方で、水木しげる先生のところに行って、お弟子さんにしてもらおうとしてた時期もあるんですけど。
――出版社に電話したら住所を教えてもらえたそうですね(笑)。
坂本 いまだったら信じられませんね。それで2回手紙出して、返事がなかったから、これはもう来いってことだと勝手に解釈して(笑)。忘れもしない、1990年だから小学5年生のときです。5月5日のこどもの日に行けば会ってくれるだろうと思ったんですね。で、調布の水木プロダクションへ文明堂のカステラを持って出かけたんです。
「マンガなんか描いてたって、食えないんですよ」「下手したら餓死しますから」
――ちゃんと子どもながらに気を遣って(笑)。
坂本 でも、アポイントは取ってないのね(笑)。 そうしたら、いらっしゃったんですね。それで「あんた何者ですか?」(と水木先生のモノマネで)って言われましてね。その頃、先生はまだ70歳までいってなくて、バリバリお元気でした。
それで「編集部から柏餅が届いてるから、あんた食べますか」って応接間に通されて、柏餅を食べながら、先生の弟子にしていただけないでしょうかと話したら、「あんた、まだ少年ですから。弱りましたね」なんて言われてね。
「それにあんた、マンガなんてのはもうね、まともな人間が手を出すもんじゃありません。あんた、まだ少年だからわからないでしょうけどね、大人になると金塊が必要なんです」って(と指で丸をつくって突き出す)。水木先生は大金を表現するのに「金塊」という言い方をされまして(笑)。
――ようするに資本がいるというわけですね。
坂本 資本がいると。「マンガなんか描いてたって、あんたね、食えないんですよ、普通。下手したら餓死しますから。大体あんた、絵は描けるんですか?」って。そのとき、私、絵を持っていったんです。ゲゲゲの森にいる鬼太郎とねずみ男とか、サインペンで模写したのを持ってったんですけどね。いや、歳のわりにはなかなか上手いと。しかし、「点描」ができてないと言われて。


