葬式のついでに家出して…
――そこで決定的な出来事があったわけですよね?
坂本 そうそう、いまその話をしようと思ったんだ。無声映画とは関係ないけど、俳優のフランキー堺も好きだったんですよ。ちょうど亡くなったとき(1996年)、沖縄の修学旅行に行かなきゃいけなかったんだけど、もうそっちよりフランキー堺の葬式に行きたかったんですよ。
告別式が出発と同じ日で、羽田空港にもう先生も同級生たちも待ってたんだけど、電話して、僕はお葬式に行くので修学旅行には行きませんって伝えて。先生も絶句してましたけどね。
それで、葬式ついでにそのまま家出しましてね。もう学校やめて活動弁士になるんだから、って(笑)。 もう、どうしようもないね。これだったら普通の反抗期の方が全然いいじゃないかって。フハハハハ。
水木先生に報告すると「まあ何とかなるもんですよ」
――水木先生にはどのように伝えたのですか。
坂本 「活動弁士になりたくなりました。ついては学校をやめたい」と。「母親や祖父母が言うには『そんなにやめたいなら水木先生におうかがいを立てて来い』と」……それは本当なんですよ。そうしたら先生は困りながらも「学校というのは、行けるんだったら行ったほうがいいんですけど、行かないんだったら、行かなくてもまあ何とかなるもんですよ」って言ってくれたんですよ。私はその後ろのほうのお言葉だけいただいて帰宅して、水木先生から学校は行かなくてもいいって言われたと、母たちに伝えたんです(笑)。
それで学校をやめて、ここ(マツダ映画社)へ相談し来たんですよ、たしか。澤登さんに弟子入りしたいと言ったら、翠さんは弟子を取らない主義なんだって断られちゃって。途方に暮れていたら、(代表の松戸)誠さんが「うちには『蛙の会』っていう研究会があって、君ぐらいの若い子も来てるから、そこで勉強して、ちょっと時機を待ったら?」と教えてくれて、さっきの話に戻るわけですよ。
撮影=山元茂樹/文藝春秋
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