プロ棋士の育成機関である「奨励会」。月2回の「例会」と呼ばれる対局の場での勝ち星に応じて段級が上がり、最終的に三段同士のリーグ戦で2位以内に入れば、晴れて棋士(四段)になる。そんな厳しい戦いの中で、勝又清和七段は「20年以上話題にできなかった」経験をしたという。

 勝又七段が東大で11年間にわたり行ってきた将棋講座をまとめた本『キホンからわかる 東大教養将棋講座』(日経BP)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の1回目/つづきを読む)

勝又清和七段が「20年以上話題にできなかった」過去とは?(写真:show999/イメージマート)

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「プロになりたい」という思いが薄かった

 勝又少年は12月に入会して、1カ月後には5級に昇級しました。その後もとんとん拍子で昇級を続け、1年ちょっとで1級になれました。初段昇段には2年ほどかかりましたが、入会から3年で初段という昇級ペースは悪くないと思います。

 しかし、初段から二段までは3年、二段から三段までは2年と大幅にペースダウンします。三段昇段が23歳になる直前になってしまったのには、理由がいくつかありました。

 一つは級位者のときより昇段規定がきつくなったこと。私は級位者時代に9勝3敗で昇級することが多かったのですが、この成績は2勝1敗を3回続けて、次に2連勝すれば達成できます。それが有段者になると12勝4敗が必要だから2勝1敗ペースでは届かない。アベレージヒッターだった私には高いハードルでした。

勝又清和七段 ©︎文藝春秋

 もう一つは「プロになりたい」という思いが薄かったこと。当時の日本はバブル景気に沸いていました。求人資料が山ほど家に届く時代でしたから、「棋士になれなくても会社員になればいいや」と、甘い考えを持っていました。それに東海大学での大学生活も楽しくて、正直に言えば将棋にのめり込めなかった。アマ強豪で同窓生の遠藤正樹さんとはよく遊びました。大学生活も人生における青春の大事な1ページですから、当時過ごした時間に後悔はありません。ただ、伸び悩んだのは事実です。

 私の指す将棋がプロの本流でなかったことも停滞の原因です。私が得意にしていた戦法は、道場のオジサンたちが指すようなものばかりで、級位者時代は勢いで勝っていたところがありました。矢倉(昭和から平成にかけての花形戦法)なんて指していませんでしたよ。