「単に無知だった」本業で稼ぐ年商の数倍をつぎ込み、ビール事業を開始
転機は1994年に訪れた。これまで個人商店だった家業を法人化し、鈴木氏は専務に就任した。同年、酒税法が改正され、ビールの製造免許を取得するための年間最低製造量が、それまでの2000キロリットル以上から60キロリットル以上にまで大幅に緩和された。
ビールといえば酵母。酵母といえば、微生物である。鈴木氏は大学時代に没頭した微生物の世界に再び携われると考え、絶望していた半径20メートルの生活から、世界へ打って出るにも適した商材だとにらみ、即座にビール事業への参入を決断した。
とはいえ、“超”がつくほどの老舗が、すんなりと畑違いの事業に挑戦できるのか。
意外なことに、先代である父は反対せず、むしろ背中を押してくれたという。「長男が日に日に腐っていく様子を見て、新しいことに挑戦させた方がいいと考えたようだ」と鈴木氏は当時を振り返る。
ビール製造免許の取得から工場建築、プラント設置まで数年はかかる。酒造りの基礎を学びつつ、醸造所を餅屋や醤油・味噌の工房が立つ一角に建設。ビール事業の人材も採用した。
そして1997年、伊勢角屋麦酒がついに誕生した。醸造免許の許認可権を持つ国税庁の方針で、醸造所には飲食店の併設が求められていたため、100席規模のレストランも開業している。設備投資に投じた金額は約2億円。当時の年商8000万円の2.5倍に上った。
「現在の事業規模に換算すると数十億円の投資と同じ。覚悟を決めたと言えばかっこいいが、単に無知だった」(鈴木氏)
並々ならぬ覚悟と大金を注ぎ込んだビール事業の滑り出しは順調だった。ペールエール、ヴァイツェン、スタウトの3種類を定番商品とし、併設したレストランも当初は賑わったという。
品質問題などでブームが一瞬で終焉、無給生活が続いた
しかし、半年後には状況が一変。観光シーズンが終わるとレストランの客足は止まった。ビール自体も「オフフレーバー(ビール本来の風味を損なう香りや味)」が多発し、品質が安定しない。設備を使いこなせていないことが原因だった。
追い打ちをかけたのが、第一次・地ビールブームの終焉である。酒税法改正でビール事業への参入が相次ぎ、低品質なクラフトビールが広まったことで消費者からの関心が薄れてしまったのだ。
当時、ある試飲会に参加した鈴木氏によると「明らかに酸化したビールもあり、半分は売ってはいけないレベルだった」。日本のクラフトビール産業自体がなくなる危険を感じるほどだったという。
その後も、レストラン事業は赤字が続き、鈴木氏自身も数年間は給与なしで働いた。貯金を崩して生活し、朝の6時から夜の12時まで働いても無給という状況が続いていたという。



