今作のラスボスにあたる夜王鳳仙は吉原桃源郷の支配者でありながら、遊女の頂点として誰もが見上げる美女、日輪太夫にすさまじい執着を見せる。彼女を半ば監禁して太陽のように見上げながらも、それを引きずり降ろして蹂躙したいと欲望する夜王鳳仙は、ある種の男性の女性に対する屈折した愛憎を象徴した人物造形だ。それは昭和の映画監督が時に女優をミューズと呼びつつ虐待していたのにもどこか似ている。昭和の『吉原炎上』が遊女たちに残酷な視線を向けていたのに対し、銀魂の「吉原炎上篇」では物語のカメラが男性の欲望に向けられている。

ラスボス・夜王鳳仙 アニメ『銀魂』公式Xアカウントより

 描くのは鳳仙の狂気だけではない。女性にまったく愛と意味を認めず、立ち塞がる遊女たちをあっさりと惨殺する神威という第三の敵を登場させ、夜王鳳仙と対峙させることで、狂うほどに執着しながら日輪に手を出せない夜王鳳仙、女性にまったく執着しないがゆえに冷淡に殺害する神威、二人の対照的な暴力が観客に対比される。

 その神威の暴力の血に引きずられようとする妹・神楽を引き戻すのが、映画の序盤で「童貞」とからかわれる(つまり女性を買ったことがない)志村新八の青臭く理想主義的な少年性である。「ただ笑顔の美女とうまい酒が飲みたいだけ」と不敵に笑い夜王鳳仙にたちふさがる坂田銀時も含め、吉原を舞台にしながら「男たちの性」のそれぞれの在り方を描く映画になっているのだ。

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「バカで軽薄なエンタメ」であることへのこだわり

 こう書くと「よりによって『銀魂』をポリコレ的に持ち上げようとしている」と失笑されるかもしれないが、遅れてきた観客の身で、今さら『銀魂』はここが政治的に正しいとか、価値観がアップデートされているなどと批評家面をしたいわけではない。銀魂が明らかにそういう「教条的正しさ」からなるべく距離を取っていること、最終回後の映画『銀魂 THE FINAL』に寄せた空知英秋のコメントを引用すれば「最後の最後まで他人の神輿の上で大騒ぎし、バカで軽薄なまま、銀魂らしく走り切る」ことをめざした作品であるのかは知っている。

 だがそれでも考えてしまうのだ。自他ともに認める「正しくない」作家がなぜこれほど美しい物語を描いてしまうのか、それも今と比較して「正しさ」がほとんど価値をもたなかった時代に。

 原作で「吉原炎上篇」が描かれたのは2008年。ツイッターフェミニズムどころかツイッターが日本サービスを始めたばかりの時代である。少年ジャンプに『意識のアップデート』を求める風潮はほとんどなかった。大物司会者が女性マネージャーを拳で殴り、民事訴訟も終わらぬままスタジオの拍手と涙で地上波復帰を迎えられていたのがゼロ年代の社会である。にもかかわらず、空知英秋は昭和の映画『吉原炎上』を鮮やかに裏返すような物語を少年ジャンプで描き、しかもそれは特に批評的に持ち上げられることもなく、なにより作者の言葉を借りれば「バカで軽薄なエンタメ」として完璧に美しく昇華されているのである。

『吉原炎上篇』、今回のリメイク『吉原大炎上』に共通するのはそのエンタメ力の高さである。前述したように、「吉原炎上篇」に登場する遊女たちはほとんど肌を見せない。だがそれによって、この作品に美や性が排除されているのかと言えばまったく逆である。この物語で登場する魅力的なキャラクター月詠は、その後長きにわたり男女共に支持され、人気投票の常連になる。

 月詠の配下として「百華」の女たちは和服に日本髪を結い、手首まである黒のロングスリーブとマスクで肌と顔を隠しているのだが、和と洋の装いを入り混ぜ薙刀を構えるその姿は、まるで戦闘服のように美しくスタイリッシュで、同時に妖しく艶めかしい魅力に輝いて見える。少女読者から見ても強く凛々しく、少年読者から見ても眠れなくなるほど美しく艶めかしいそのスタイルは、「古い美を裏返しながらそこに新しい美を生み出す」という、後にハリウッドやディズニーが目指す地点に先に到達しているようにさえ思える。

月詠と「百華」の女たち 『新劇場版 銀魂 -吉原大炎上-』公式予告編より

 空知英秋は不思議な作家である。『銀魂』という作品がその設定の根本に攘夷戦争や天人による支配といった日本の敗戦と対米従属を隠喩する描写、あるいはPKディックの『高い城の男』を思わせるような「もうひとつの歴史」の政治的メタファーを多く仕掛けていることは良く知られる。

 しかし同時に、作品の深い構造が観念劇、政治劇として評価されることを拒むように、日常バラエティ的な敷居の低い笑いで崩していく手法をとる。『銀魂』という作品が批評家に注目され、評価される機会であったはずの、朝日新聞社主催の手塚治虫文化賞も、ノミネートの時点で辞退している。それはまるで批評の権威から高く評価されることを自ら避けているようにさえ見える。