現場の自衛隊員たちが怒っていたワケ

 1991年の停戦後、日本は国際社会からの白い目に耐えきれず、自衛隊法99条に基づき、ペルシャ湾への掃海部隊派遣を決定した。当時は初の実動部隊による海外派遣ということで、世論は二分し、国会審議も大荒れ。翌年のPKO(国連平和維持活動)法成立の際などは「牛歩戦術」まで飛び出したのである。

 かくして日本政府は1991年6月、いま戦場と化しているペルシャ湾に掃海艇「さくしま」「ひこしま」「あわしま」「ゆりしま」4隻、掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」、計6隻の艦艇からなる掃海部隊の派遣を決定した。

1991年6月、ペルシャ湾内某海域。0700時、早朝から34度を超える猛暑の中、 投錨地よりMDA-7(機雷危険海域)に掃海任務のため向かう掃海艇「さくしま」「ひこしま」「あわしま」「ゆりしま」。

 当時、わずか500tほどの木造の掃海艇4隻、掃海母艦、補給艦各1隻ずつから編成された艦隊は、横須賀、呉、佐世保各基地から命がけの航海へ。しかし、テレ朝の看板番組「ニュースステーション」のメイン・キャスターであり、今年はじめに亡くなった久米宏氏は「今から行って、役に立つんでしょうかねぇ? 行ったら機雷が1発も無かったなんてことになるんじゃないでしょうかねぇ……」などと発言していた。

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 しかし、自衛隊員からすれば、艦隊の派遣が遅れたのは国会審議が長引いたからに他ならない。皆はらわたが煮えくり返っていたと知ったのは、今や犯罪者の逃亡先と化したドバイのラシッド港で、補給艦「ときわ」に乗艦してからだった。

 派遣部隊の「ときわ」と掃海母艦「はやせ」はいいとして、わずか500tほどの木造の掃海艇4隻にとっては、日本からペルシャ湾まではまさに大航海。実に1カ月もかかった。

停戦となったものの、イラク軍が火を放ったクウェートの油田から煤煙が立ち上がり、水平線が霞む。掃海作業は安全のため日没前には終える。

 ところで、なぜ軍艦なのに木造? と首をかしげたそこの賢明な読者の方々。それにはペルシャ湾より深いワケがあるのである。のちほど説明しよう。

6隻の艦隊と511名の将兵の指揮を執る男

 我々はまず「ときわ」に乗艦し、ラシッド港からMDA-7(Mine Danger Area=機雷危険海域)といわれる機雷ウヨウヨの海域に向かい、そこで掃海母艦「はやせ」に乗り換え、さらに掃海艇「あわしま」に乗り込み取材を続けた。

 まだまだ実動部隊としての女性自衛官の海外派遣など、夢にも見なかった時代。511名の自衛隊員は、全員が男性隊員であった。我々も乗艦中は乗員とともに、まさに「月月火水木金金」の艦隊勤務を続けた。

 危険な海域で我々をエスコートしてくださったのは、のちに海上自衛隊最高位まで出世された、海幕広報室長・古庄幸一1等海佐と、PR幕僚・土肥3等海佐。6隻の艦隊と511名の将兵の指揮を執るのは第1掃海群司令であった落合(たおさ)1等海佐である。

補給艦「ときわ」士官室で記者会見に応じる派遣部隊指揮官落合畯1等海佐(左)と「ときわ」艦長両角2等海佐(中)。開口一番、自らの激務と重責にもかかわらず「こんな遠いところまでよくお越しくださいました」。

 指揮官である落合1佐は、沖縄戦で牛島満陸軍中将とともに海軍陸戦部隊の指揮を執り、自決直前に「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」と訣別の電文を送った大田実海軍中将の三男。指揮官に任命される前の湾岸戦争勃発前には「自衛隊も行くべきだ」と講演しまくっていたものの、まさか自身が指揮官となって派遣されるとは思わなかったという。