関東大震災の後から“ドブ川”に
運命が変わったのは1923(大正12)年に発生した関東大震災だ。被災住家約37万棟、死者・行方不明者約10万5000人。特に東京の下町は激しい火災に見舞われた。被災者の移住などもあって、高田町時代の雑司ヶ谷は一気に都市化する。明治の半ば以降に始まっていた人口増加に拍車が掛かった。
「弦巻川は汚いドブ川になっていったそうです」と幾人もの住民に聞いた。
『高田町史』には「裏長屋の炊事洗濯の汚水と塵芥とで、悪臭鼻を撲ち、昔は月の名所、蛍の名所であったが、今は蚊の名所、蠅の名所となり」などという変貌ぶりが記されている。
下水道の整備が急務になり、弦巻川の暗渠化が持ち上がった。
地元の町会会長が雑司ヶ谷の歴史を記した冊子『ふるさと雑二町会』(1988年、宇佐美俊弘さん発刊)にはたくさんの証言が収録されている。ここから引いてみたい。
下水道を完成させたい一心で高田町議に立候補した元議員は「下水が一番不衛生です。だから下水道を皆さん完成させようではありませんか」などと立候補時に訴えたと話している。
他にも下水道の整備が求められる理由があった。弦巻川の洪水対策だ。
『ふるさと雑二町会』には別の元町議の証言も載っていて、「大雨になると洪水が発生し、田んぼがまるで海のようになっていた。舟を持たないと住んでいられない」などと話している。
元婦人会長は「大雨が降ると川があふれ、上の方から水がどんどん来た。ここでも1尺(約30cm)ぐらい浸水した」などと述べた。
高田町は1931(昭和6)年、下水道工事に着手した。弦巻川に蓋を掛け、暗渠化する形で整備したのだ。豊島区立郷土資料館の横山恵美学芸員は「なるべく短い距離を通したので、現在の下水道の通りに川が流れていたわけではありません。また、下水道の上は道路になりました。当時は道があまり整備されておらず、川の上に通したのです」と語る。


