100年後の未来を見据えた大工事

 環境対策、洪水対策、そして道路の建設。高田町にとっては極めて大きな事業だった。川のほとりにあった大鳥神社の境内には下水道工事の記念碑が建てられていて、当時の海老澤了之介町長の文章で「百年ノ大計」として事業を進めた経緯が記されている。暗渠上の道路は「弦巻通り」と名づけられて商店が建ち並び、雑司ヶ谷のまちの骨格ができた。

大鳥神社の境内には、下水道工事の記念碑がある(豊島区)

 下水道は町が編入された東京市に引き継がれ、さらには東京都へと移管された。現在も「雑司ヶ谷幹線」として基幹的な役割を果たしている。網の目のように張り巡らされた下水道の本流だ。源流は丸池の湧水から家庭排水などに変わり、汚水は1922(大正11)年から稼働している三河島水再生センター(荒川区、レンガ造りの施設が国指定重要文化財)へ流下している。川ではなくなったが、面影がないわけではない。降雨時には地表の雨水が流れ込み、雨量が増えると神田川にあふれ出る。

 外からは見えないものの、建設当時をほうふつとさせる場所がある。平安時代に創建された法明寺の近くでは、幅120cm・高さ90cmの下水道の底部がレンガでできている。

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 馬のヒヅメの形をした馬蹄形レンガ造りの場所もある。雨を神田川に放流する雨水管12.65mと、その直前の最下流160.28mだ。「昭和初期までに造られたもの」(東京都下水道局)という。

下水道「雑司ヶ谷幹線」には、底部がレンガ造りの箇所がある(工事中に通りがかった住民が工事関係者の許可を得て撮影)

 これらの整備で環境は改善した。では、洪水はなくなったのか。弦巻通りの商店などで聞いてみた。

 80代の女性店主は「川は地下化されても、やっぱり谷です。以前は雨が降るとしょっちゅう水が出ていました。20分も降り続けば、道路が川のようになり、バケツとかが流れて来ます。うちの店は水が入らないよう一段高くしてありますが、それでも20~30年ぐらい前に浸水しました。だからずっと土嚢(どのう)を置いていました」と話す。

 60代の男性店主も「小さい時は膝ぐらいまで浸かっていました。オートバイなんかも流れて来て、店が浸水したこともあります。今でも大雨が降ると土嚢を積む家があります」と語る。

弦巻通り。「道路から一段高くした建物でないと、すぐに水が入ってきました」と住民(豊島区)

 弦巻通りに面した東京音楽大学付属高校は、地下に流れ込まないよう止水板を設けている。警備員は「まだ稼働したことはありませんが、浸水しそうになると金属板が自動で上がります」と話していた。