小林幸子に「わかんなくなった」と…
もともとあがり症の島倉は、このときは2年ぶりの紅白ということもあり画面に映らないところでは大騒ぎだったと、後輩歌手の小林幸子が証言している。ステージに上がる直前になって「サチ、わかんなくなった、歌が……」と手を震わせながら言い出したので、出番まで小林が歌って聴かせた。《でも、いざステージに立つと何事もなかったように歌うんです。そして、戻ってきて一言、「完璧。うれしい」って》(『週刊現代』2014年11月8日号)。
「人生いろいろ」で歌手として新たに脚光を浴びる陰で、かつて一緒にのど自慢で競い合った姉が入水自殺するという出来事もあった。姉は小児麻痺で体が思うように動かせなかっただけに、60歳をすぎて悩むこともあっただろうと彼女は慮った。
あるジャーナリストは、島倉が歌手となり、国民的ヒロインとなるにつれて、家族の絆はもろくも壊れていったと指摘する(田勢康弘『島倉千代子という人生』新潮社、1999年)。結婚でそれは決定的となり、なかでも一時は芸能界にデビューさせた弟2人とは、のちに金銭トラブルなどもあって、確執を深めたと伝えられる。
乳がん宣告、声が出なくなり…
島倉の試練はなおも続いた。1993年、54歳のときには人間ドックの受診をきっかけに乳がんが見つかる。宣告されたときにはショックで、自分の人生はこれで終わるのだと思い、家のなかを整理して中学生のときからつけていた日記も焼き捨てたほどだった。それでも執刀医にすべてを任せて手術を受けた。無事に終わり、麻酔から覚めて最初に思ったのは「歌をうたいたい」ということだったという。
入院中に声が出なくなったので、院長の許可を得て会議室を借り、カラオケを持ち込んで歌の練習も始める。それがしだいにほかの患者の知るところとなり、聴かせてほしいと頼まれ、「パジャマ・コンサート」を開いた。歌ったのは、がんがわかってレコーディングが延期になりかけたところを、病気と闘うため入院前に録っておきたいと島倉が懇願して録音した「女の夢灯り」という曲だった。
病室にはポスターを貼って、それを目安に毎日、手を伸ばすリハビリをした。一番上まで手が届いたときには、自分はまだリハビリさえすれば手が動くんだと気づく。不思議なことに、がんの手術をしたら、幼いころの大けがで失われた左手の感覚が戻ったという。
