食事は子供1人につき1日で粉乳2さじ、砂糖3さじ、6回の水分補給のみ。通常の半分にも満たない量である。当然、子供は栄養失調に陥るが、院長のミユキは気に留めることはなく、開業以来雇われた十数名の助産師たちがミルクの増量を訴えても、自分の指示どおりにすればいいと全く取り合わなかった。

 そんな寿産院の異常性は周辺にも知られていた。真夏でも、多くの赤ん坊は裸のまま床の間に転がされているだけ。

多くの赤ちゃんが「栄養失調」「凍死」

 彼らの体は開け放たれた戸から入ってくる蚊の格好の餌食となった。さらに肌は発疹だらけ。いくら汗をかいても入浴もおむつの替えも行われず、乳児は一日中泣き叫ぶ。心配した近隣住民が警察に通報したことは一度や二度ではなかった。

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 引き取り手の見つかった乳児は幸運だった。が、「売れ残り」の大半は栄養失調で死亡。一部は冬期に保温されることもなく凍死し、その数は最終的に169人にのぼった(年別の死者数は1947年が最多の53人)。

 これは寿産院で引き受けた乳児の約85%に該当する。死亡診断書を書いた医師によれば、産院から診察を受けに来たときはすでに子供は手遅れで、投薬したことは皆無。夫妻の求めるままに偽りの死亡診断書を60枚近く作成したそうだ。

 また、遺体は全て葬儀屋に火葬を依頼し、1体500円で処理させていたという。

事件発覚までに4000万円を獲得

 石川夫婦は乳児をハナから育てる気持ちなどなく、その目的は養育費の横領にあった。加えて配給された粉ミルクや砂糖、死亡した乳児の葬祭用の清酒2升(3.6リットル)を闇市に横流しすることで、飢えて亡くなっていく乳児をよそ目に、事件発覚までに約100万円(現在の貨幣価値で約4千万円)の大金を手にする。

 さらには、その収入で当時はまだ高価かつ希少だった電話機を自宅に備え、また東京都内や茨城県内の土地を購入。発覚直前には、非常に高価だった自家用車まで購入しようとしていたそうだ。