臨時野戦病院に続々収容「傷者500名」「更に患者700名」

 いまや似島の島全体が異様な興奮に包まれていた。搬送されてきた被災者は重傷者が多く、手術が必要な切迫した状況であった。その頃、暁部隊司令部から似島に向けて手旗信号で病院船衛生班に命令が発せられた(電話線は不通となり、通信手段は途絶されていた)。「似島に救護所を開設して傷者500名を収容する準備せよ、患者は当方より送致する」。その後も、「更に患者700名を収容する準備せよ」、「最大限に患者収容の準備をせよ」との命令が矢継ぎ早に届いた(*3)。

*3 大坪一郎「『キユウゴ シヨ』オ〔ママ〕カイセツセヨ」前掲『われら病院船』178-179頁

 こうして、検疫所附属病院は原爆被災者の救護を担う臨時野戦病院となり、病院船衛生班や船舶防疫部の将兵・軍属、島の対岸にある江田島の幸之浦(幸ノ浦とも記載)から6日の午後に急派された海上挺進戦隊、そして島民や逗留者たちが負傷者の救護活動に従事した。島外から応援部隊が駆けつける一方で、似島駐屯の船舶防疫部から爆心地に派遣され、現地で救護活動に従事する兵士もいた。例えば、船舶防疫部の森富軍医(森鷗外の孫)は、8月6日当日の午前中には市の中心部に向かい、比治山で救護作業に当たっている(*4)。

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*4 森富「被爆体験について」『被爆体験記集(被爆地別五十音別) 広島被爆』第105巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵

福星丸と交通船2隻、野戦船舶本廠の女子100人を増派

 6日の午後1時52分、暁部隊の佐伯司令官は野戦船舶本廠長に対して、患者を似島に輸送するために福星丸と交通船2隻を差し出すよう命じた。さらに夕方6時に、似島で救護の担い手が不足しているとの報に接すると、直ちに野戦船舶本廠の女子100人を現地に増派した。

 前述のように、原爆被災者は宇品から軍の舟艇や漁船、あるいは筏に乗せられるなどして似島に搬送された。例えば、広島工業専門学校3年生の坪井直(当時20歳)は通学途中、富士見町(爆心地から南東に約1kmに位置する町)付近で被爆し、御幸橋(富士見町からさらに南に約1.5kmの位置にかかる橋)辺りでトラックに乗せられて宇品まで送られ、似島に移送された。彼は到着後すぐに人事不省に陥ったが、数日後に家族に発見され、自宅に戻ることができた(*5)。

*5 被爆者証言ビデオ、坪井直氏、1988年8月1日制作、広島平和記念資料館平和データベース、https://hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=13775 2025年7月5日アクセス