原爆直後に似島で起きたもう一つの悲劇
ところで、第二総軍の教育参謀で朝鮮皇族の李紲陸軍中佐(朝鮮王朝の末裔、当時32歳)は、馬に乗って総軍司令部に出勤途中、爆心地近くで被爆した。李公の出勤時に同伴していなかった御附武官の吉成弘陸軍中佐をはじめ、軍関係者は李公の身の上を案じ、炎が各所で上がる中を必死に捜索した。その結果、6日当日の午後に本川橋(編集部注:爆心地から500mほど西にかけられた橋。現在の平和記念公園そばに位置する)の西詰で倒れていたところを発見され、その日の夜半までに宇品経由で似島に搬送された。その後、李公は将校用の宿舎に収容されるも、翌7日の未明に容態が急変し、そのまま息を引き取った。御附武官の吉成中佐は責任を痛感し、李公の遺骸が(朝鮮の公邸への移送のため)似島を離れる8月8日当日の未明、官舎の外で自害した(*7)。
*7 井本〔熊男〕大佐の吉成〔まきの〕御奥様宛書簡、1945年8月16日付、松本龍織氏資料C1993-358、広島市公文書館所蔵
原爆直後、似島で起きたもう一つの悲劇である。
難航する救護活動
膨大な数の重症患者を前に、そして医療従事者が不足し、医薬品や衛生用品も欠乏する中、似島での救護活動は困難を極めた。手術や治療を主管したのは病院船衛生第53班(検疫所附属病院)である。ひどい火傷を負った患者に対して、垂れ下がった皮膚をハサミで切り取って消毒薬を塗るなどの応急措置が講じられた。火傷で皮膚が損傷し、傷口から細菌に感染して筋肉の組織が壊死するガス壊疽を罹患する患者も多く、西村軍医大尉と片平保軍医中尉は不眠不休で外傷治療や手術に追われた。「治療上止むなく切断した上肢或は下肢が手術室の窓外にうず高く積まれるまでに至った(*8)」。西村軍医の回想である。
*8 前掲、西村「あの時私は……」184頁
麻酔薬が底をついたため、麻酔なしで手術したケースもあった。「死にたくないんです。どうしてもお家へ帰りたいのです。切ってください」。麻酔なしでも手術を望む一人の女学生の声に、西村は逡巡の末、どうしても助けたいとの気持ちから、ガス壊疽が進行する彼女の左手の切断手術を決断した。「子どもと思うな。女の子と思うな」。西村は自分に言い聞かせるように部下に語りながら、少女の腕をバンドで止め、頭と足を押さえさせて切断刀を握って麻酔なしの手術を敢行した。8月9日のことであった(*9)。
*9 西村幸之助「寝ないで手術」『似島――廣島とヒロシマを考える』原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会、1988年、11頁。西村幸之助「似島の記」『追悼記 増補』広島女子高等師範学校附属山中高等女学校、1993年、169-171頁。大東市原水爆禁止協議会編『似島を心に抱きつづけて――小原好隆さん遺稿集』非売品、2001年、53、160-162頁


