「痛いよーお母さん痛いよー」「兵隊さんこの仇、討って下さい」

 米軍による核攻撃は人類史上、前例のない大惨事を引き起こしたが、似島の状況はその縮図であった。附属病院内は阿鼻叫喚の様相を呈した。病室のあちこちで「軍医さん助けて!、衛生兵さん助けて!」、「痛いよー痛いよーお母さん痛いよー」といった悲痛な声が響き、ある少年は「兵隊さんこの仇、討って下さい」と救護兵に言い残して息絶えた(*12)。

*12 梅宮日出子「被爆患者を救護した悲録」『平和へのねがい』第8号、原水爆禁止西宮市協議会、1996年3月、16頁。丸山直治「被爆者の眠る島 似島被爆救援の七日間」『原爆と文学 2007年版』2007年3月、27頁。笠江春美「ヒロシマの願い 私の願い」前掲『追悼記 増補』174頁

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 犠牲者の多くの無念に接し、救護に従事する者たちは無力感にさいなまれた。彼らは被災者の情報を記録すべく努めたけれども、重傷者から名前等を聞き取ることはもとより、意思疎通を図ることさえ難しかった。患者の数が膨大なため、被災者に個別に食事を配布することができず、やむなく応急的に薄い粥食をバケツに入れて、竹製の食器と柄杓を数個ずつ各病室に置いた。しかし、重傷者などには、実際に食事をとることは難しかったであろう。火傷で苦しむ負傷者にとっては排泄も難事であった。身体が不自由なために、(羞恥心を抱きながらも)やむなく異性による介助を受けなければならないこともあった。救護の現場は被災者の体臭や火傷の臭いなどが入り混じり、猛烈な悪臭が漂って、看護者たちのマスクは黄ばみ、臭いがしみついた。