他人の世話をしていた元気な人が突然…

 治療室では全身に突き刺さったガラスの破片を取り除く処置もなされた。その一方で、外見は無傷で、他人の世話をしていた元気な人が、突然、全身に多数の血の斑点が出たかと思うと、口内出血し、あるいは吐血し、倒れてそのまま亡くなってしまうこともあった。多量の放射線を浴びたため、急性障害を引き起こしたものと推察される(*10)。

*10 市中心部でも同様の現象が見られた。例えば、爆心地から約800メートルの大手町で姉の山下博子(旧姓・吉田、当時18歳)と被爆した末弟の祐策(6歳)は、一見無傷で元気だったが、被爆の2週間後に突然、髪の毛が抜け落ち、高熱を出し、鼻から大量に出血して急逝した(山下博子『私の被爆体験――末弟・祐策のことなど』私家版、1998年)。放射線を浴びた影響が数年以上も経って現れる例もあった。最も有名なのは佐々木禎子であろう。禎子は2歳の時、兄の雅弘と楠木町(爆心地から約1.6キロメートル)で被爆し、その約10年後の1955年10月、亜急性リンパ性白血病により12歳の若さで死去した(佐々木雅弘『禎子の千羽鶴』学研パブリッシング、2013年

重傷者を間近で撮影することの残酷さ

 以上のような悲惨極まりない似島の光景を現場で「記録」した人がいた。暁部隊の写真班員、尾糠政美(当時24歳)である。彼は8月7日の午後に似島に渡った。島内の救護所の活動状況を写真撮影することが任務であった。彼は焼けただれた負傷者、あるいは一カ所に集められた死体を次々に撮影した。重傷者を写す時、その人と視線が合い、何とも言えない気持ちになったという。軍命令とはいえ、彼は重傷者を間近で撮影することの残酷さを感じずにはいられなかった(*11)。

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*11 広島原爆被災撮影者の会編『被爆の遺言――被災カメラマン写真集』私家版、1985年、57頁。被爆者証言ビデオ、尾糠政美氏、1992年8月1日制作、広島平和記念資料館平和データベース、https://hpmm-db.jp/list/detail/?cate=testify&search_type=detail&data_id=13987、2025年7月5日アクセス