「兵隊さん、オナカノナカガ燃エテイマス。早ク水ヲクダサイ」
原爆被災者たちは一様に水を求めた。
「兵隊さん、オナカノナカガ燃エテイマス。早ク水ヲクダサイ(*13)」
*13 山野道雄「被爆体験について」『被爆体験記集(被爆地別五十音別) 広島被爆』第111巻、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵
船舶兵の山野道雄(当時21歳)が、ある負傷者から訴えられた言葉だ。救護をする者にとって辛かったのは、患者から水を所望されても与えられず、そのうちその人たちが相次いで死亡したことである。水道のそばでは水を求めた多くの被災者が息絶え、その光景に救護者たちは衝撃を受けた。当時、重傷者に水を与えると死んでしまう、との噂が市民の間に広まっており、野戦病院の関係者も、捜しに来た肉親たちに会わせたいとの願いから、患者に水を与えないように努めた。病室には、水を与えることを禁じる掲示も貼り出された。こうした指示があったために、例えば検疫所獣医課の久保千恵(当時20歳)は「お姉ちゃん、水をちょうだい」と子供から懇願されても、水を差し出すことができず、そのことで彼女は後年まで「辛く悲しく、やり切れない気持ち」を抱え続けた(*14)。
*14 久保千恵「平和な島・似島が一転して地獄の島に」創価学会婦人平和委員会編『ヒロシマの心・母の祈り――平和への願いをこめて(4) 広島・被爆その後編』第三文明社、1982年、129頁
水を運んで患者たちに飲ませるも…
「軍命に背き与えし一杯の水を末期に被爆者は逝く(*15)」
*15 前掲、丸山「被爆者の眠る島 似島被爆救援の七日間」29頁。
船舶練習部第一棚教育隊の笠江春美(当時18歳)が詠んだ歌だ。教育隊の少年兵・丸山直治(当時17歳)によれば、当初「火傷〔を負った者〕に水は禁物」と水の提供が厳禁されていたが、3日目からあまり言われなくなった。同じ所属で台湾出身の周宜隆(当時20歳)も、兵舎の各所で水を求める患者の声を耳にし、戦友と相談して水道管から水を運んで患者たちに飲ませた。だが、翌朝には多くの患者が息絶えたという(*16)。
*16 平野伸人編・監修『台湾の被爆者たち』長崎新聞社、2012年、62頁
似島の野戦病院では「水をください、水をください」と、水を求める患者の声が合唱のようにそこかしこから聞こえた(*17)。
*17 「ヒロシマの証言 被爆者は語る」橋本ノブエ氏、1996年録音、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館所蔵。服部春一「似島救護を偲ぶ手帳」「船舶特幹第三期生の記録」編集委員会編『若潮三期の絆――船舶特幹第三期生の記録』陸軍船舶特別幹部候補生第三期生会、1995年、460頁



