他方、朝鮮半島出身の辛泳洙(当時26歳)は幟町(編集部注:広島市中心部の町。爆心地から北東に約1kmに位置する)の電停で電車を待っていた時に被爆、顔面に大火傷を負って、宇品から似島に運ばれた。数日間、昏睡状態になった後、呉線沿線の陸軍病院の分院に移された(*6)。

*6 辛泳洙「臨時の陸軍病院で迎えた解放記念日」朴秀馥・辛泳洙・郭貴勲編『被爆韓国人』朝日新聞社、1975年、135-137、140-141頁。

大火傷を負い全裸に近い被災者たちで埋まった病院までの道

 当初、負傷者たちは宇品から搬送されたが、満潮時になると舟艇が河川を遡行するなどして、宇品以外の方面からも運ばれてきた。

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 検疫所の桟橋から附属病院までは約150メートルあった。大火傷を負い、全裸に近く、年齢や性別の区別もつかない姿の被災者たちは、桟橋から病院まで歩かねばならなかった。その途上で息絶える人が続出し、病院までの道はほどなく足の踏み場もないほどの死者で埋まってしまった。

病床や衛生用品、医薬品が底を突き…

 80床の病床数しかない附属病院に膨大な数の重傷者が搬送されたため、すぐに満床となった。8月6日の午後2時頃には、追加の収容が困難な状況に陥った。負傷者の一部――島西部の家下の桟橋に到着した人々――は、島民が「寺」と呼んだ似島説教場(説教所)に一時収容されたが、十分な治療ができないため、その後、峠を越えた検疫所まで搬送された。

 検疫所の構内では、屋根のある場所は倉庫、廊下を問わず全て利用したものの、収容スペースが足りず、死者と死者の間に患者を横たえる有様であった。そのため馬匹検疫所まで利用しなければならず、春舎に唳(むしろ)を敷いて軍用毛布を重ねて病床とした。遺体が横たわる中で肉親を捜す家族の姿も見られた。膨大な数の患者のため、被服倉庫に備蓄していた5000人分の毛布やシーツはもとより、病院裏の防空壕に保管してあった5000人分の薬やガーゼや脱脂綿などの衛生用品も瞬く間に使い切ってしまった。薬不足のため、藁を焼いて灰にし、殺菌消毒薬(マーキュロクロム)に混ぜて火傷に塗り、あるいは海水を濾過した水とリンゲル液を調合して生理食塩水として利用した。