岡留が反権力者だったとは到底思えない
沖縄移住後も、取材で訪沖するたび岡留の経営する飲み屋で会った。那覇・松山のキャバクラを一晩7軒も飲み歩かされたこともあった。
そういう濃密な関係からいうと、彼の死後各種メディアを飾った“反骨”編集者岡留礼賛論には違和感を覚えた。「噂の眞相」が類を見ないスキャンダル雑誌だったことは確かだが、岡留が反権力者だったとは到底思えない。
むしろ私には、権力側からクレームがくるとすぐに謝る岡留の柔軟な、というよりいい加減な姿勢が「噂の眞相」を25年も存続させた最大の理由だったと思えてならない。
岡留の死から約2か月後の3月30日、東京・市ヶ谷のアルカディア市ヶ谷で「岡留安則を賑やかに送る会」という催しが開催された。
私はその会に、事務局から頼まれて参加者贈呈用の「噂の眞相」のバックナンバーを段ボール箱4杯分送った。
それを仕事場の書庫から送るとき、「噂の眞相」と並んで吉本隆明の「試行」がほぼ全冊所蔵されていることがわかった。
それを見たとき下品な「試行」が「噂の眞相」、気取った「噂の眞相」が「試行」だと思った。
脇が固くて懐が深いことが名力士の条件
「おかまの英坊」をはじめ各界有名人が参加した「岡留安則を賑やかに送る会」では、こんな冗談めかした挨拶をしようと思っていた(だが、時間の関係で実際にはできなかった)。
――脇が固くて懐が深い。これが名力士の条件だといわれます。これは歴代の名編集者にも当てはまります。というよりこれはどんな分野であれ、「ひとかど」の人物の第一条件だと私は考えています。
ところが私が見るところ、岡留はこれと正反対で脇が甘くて懐が浅い、というより懐がない。言ってみれば本当の相撲取りではなく、周囲の者が指でトントン叩いて動く紙相撲の力士でした。これは岡留を批判して言っているわけではなく、むしろそうした“他動的”な姿勢が、このユニークな雑誌の推進力だったと思います。
岡留は「噂の眞相」で、3億円近くの金を残したといわれます。粗末なザラ紙に印刷しただけの雑誌が20万部近い部数を続けたのですから、それぐらい稼いでもおかしくなかったでしょう。
こうした話を聞くと、私は約10年前に公開されアカデミー賞作品賞など各種の映画賞を総なめにした「スラムドッグ$ミリオネア」というインドのムンバイを舞台にした映画を思い出します。この映画はスラム育ちの少年がテレビのクイズ番組に出演し多額の賞金を手にするという物語です。
この映画を思い出したのは、岡留と私が初めて会った当時の新宿ゴールデン街に、インドのムンバイと同じような喧噪感があったからでしょう。その頃のゴールデン街の裏手にはチンチン電車(都電)が走り、架線から放射される青い火花が薄暗い店内を怪しく照らし出していました。
私がゴールデン街に出入りし始めたのは、大学を卒業した1969年からですが、その頃の新宿にはまだ超高層ビルはなく、西新宿は淀橋浄水場を取り壊した跡の瓦礫だけが残る空間でした。ポーランド映画の「灰とダイヤモンド」そっくりの光景が広がる世界だったのです……。