そのおかげで1998年に初版が発行された拙著の『渋沢家三代』が増刷され、この度、電子書籍にもなった。
日本資本主義の育ての親といわれる渋沢栄一は、「噂の眞相」元編集長の岡留とは正反対の脇が固くて懐が深い人物だった。
現在の一万円札の肖像モデルである福沢諭吉が、幕末の激動期から明治の維新期に活躍した洋学者のことを「一身にして二生を経る」と表現したのは有名である。
これは『渋沢家三代』の本文でも書いたことだが、渋沢栄一は「一身にして二生を経る」どころか、一身を三生にも四生にも生きた男だった。
天保11(1840)年2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)に生まれた渋沢栄一は、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、そして明治、大正、昭和と生き、軍靴の音が高まる昭和6(1931)年11月11日、91歳で眠るがごとき大往生を遂げた。
歴史上の“偉人”として書いたつもりはまったくない
こうした動乱の時代に生まれれば、脇が固くて懐の深い人物が登場しないわけがない。確かに渋沢栄一は、菅義偉以下安倍政権下の陣笠代議士など比べようもない大器量人だった。それにしても時代が下れば下るほど、どんな分野でも日本人が小粒化していくのはなぜだろう。
以下、渋沢が生きた時代について本文から引用することをお許し願いたい。
〈この間、ペリーの黒船来航があり、桜田門外の変があった。大政奉還があり、戊辰戦争があった。廃藩置県があり、地租改正があった。西南戦争があり、大日本帝国憲法の発布があった。日清、日露の戦争があり、大逆事件があった。日韓併合があり、第一次世界大戦があった。ロシア革命があり、関東大震災があった。昭和恐慌があり、満州事変があった。
渋沢栄一は世界史が激動する時代の息吹きを、同時代人として、己が肌で感じとり、それを自己のエネルギーの源泉としていった。栄一にとっては、徳川慶喜も勝海舟も坂本龍馬も近藤勇も西郷隆盛も同時代人だった。ナポレオン三世もレーニンもリンカーンも、樋口一葉も夏目漱石も森鷗外も、幸徳秋水も大杉栄も明治天皇も乃木希典も、栄一と同じ時代の空気をすって生きた〉
最近マスコミを大賑わいさせた天皇の生前退位と改元問題に引き寄せていえば、最後の将軍の徳川慶喜の側近として仕えた幕臣の渋沢栄一は、維新後に一転して近代天皇制を支えた日本資本主義最大のプロモーターになった。
しかしそう述べたからといって、私は日本近代化の立役者の渋沢栄一を歴史上の“偉人”として書いたつもりはまったくない。
教科書に載ってもおかしくない“偉人”どころか、栄一は女性関係に関してもすこぶるマメな男だった。
栄一の大きな声が筒抜けに聞こえてきた
明治末期、栄一が設立した大日本麦酒の植村澄三郎が、栄一に関係する会社に突発事件が起きたことを知らせるため、八方手を尽くして栄一を探し回ったことがあった。どうやら日本橋浜町の「一友人」宅にいるらしいことを突き止めた植村は、勇をふるって女名前の表札がかかった裏通りの家を訪ねた。植村が取次の女中に来意を告げると、やがてあまり広くもない家の奥から、聞き覚えのある栄一の大きな声が筒抜けに聞こえてきた。
「かようなところに、渋沢のおるべき道理はありません。御用がおありなら明朝本宅の方をおたずねください、そう申しあげなさい」