2004年に「噂の眞相」を休刊したことは賢明な選択だった
「噂の眞相」の人気が沸騰したのは、昭和末期から平成16年にかけてである。世はバブル景気に沸き、すべての心棒を失った日本社会は、総合雑誌の高みからのご高説より、権威なら何でも引きずり下ろすスキャンダリズムを渇望していた。
だが、こうした反権力を看板とする雑誌の時代が長続きしないことも確かだった。というより平成に入ると紙のメディアは終わりに近づき、時代は誰でもインターネットで勝手な意見が言えるSNSの時代に突入しつつあった。
事実、これ以降“出版不況”は本格化し、書籍と雑誌の売り上げは奈落に向かって突き落とされていった。
その意味で岡留が、少子高齢化による日本の人口減が始まる直前の2004年に「噂の眞相」を休刊したことはきわめて賢明な選択だったといえる。
自分の周囲にしか関心を持てない年寄りだけが急増し、知的好奇心にあふれた若者が激減する世の中は、出版活動に適した時代とはいえない。
改元で唯一吉報だと思ったのは……
それ以上に私が感心したのは、岡留を送る会がポスト平成の改元騒ぎなどどこ吹く風と行われたことである。
参加者の誰も改元や天皇の代替わりについて語る者はいなかった。「噂の眞相」の読者の中に皇室フリークはたぶん一人もいない。というより世間のお祭り騒ぎに背を向けるへそ曲がりが、この雑誌の中心読者だった。
それは「平成後の時代なんか俺は知らないし、責任もとれないよ」という岡留の最後の置き土産のように思われた。
平成以降の元号が「令和」という名称に決定されたのは、岡留を送る会から2日後の4月1日のことだった。その日、官房長官の菅義偉が得意げに掲げる「令和」という文字を見たとき、著しい違和感を覚えた。
菅のふだんの陰険な顔に重ねて即座に「巧言令色、鮮(すくな)し仁」という『論語』の言葉を思い出し、いやな時代が始まるだろうと予感したのである。
新聞などでは「令」には令嬢などよきこと、美しきことの意味があるともっともらしい解説をしていたが、「令和」という呼称には、上から目線で「和やかにすごせよ」と命令されている印象しかなかった。
改元で唯一吉報だと思ったのは、新一万円札の肖像画に渋沢栄一が選ばれたことである。