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 栄一の末子の渋沢秀雄は、栄一の日記に「一友人」(フランス語でアミ)と書かれていたら、それは二号さんに間違いないと書いている。「一友人」という表記は、栄一のパリ遊学時代の名残だった。フランス語で友人を意味するアミには、愛人の意味もある。

 栄一没後40年ほど経った昭和44(1969)年、第一銀行(現・みずほ銀行)と三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)の合併が極秘裏に進められたことがあった。事前に情報が漏れたため、結局失敗に終わったが、この計画を画策した第一銀行頭取の長谷川重三郎が、栄一の隠し子だったことは知る人ぞ知る話である。

 長谷川は明治41(1908)年の生まれだから、栄一の68歳のときの子ということになる。渋沢家の歴史に詳しい「龍門社」のOBによれば、栄一は68歳で子をなしたとき、「いや、お恥ずかしい。若気のいたりで、つい……」と言って禿げ頭をかいたという。

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 もしこの時代に「噂の眞相」があれば、世間を揺るがす大スキャンダルとして書きたてたことだろう。

新1万円札のデザイン(財務省ホームページより)

決して聖人君子などではなかった

 渋沢栄一は世間的には、残念ながら「論語と算盤」という言葉のみによって知られている。栄一は事業理念の範を、資本家とは一見不釣り合いな『論語』に求め、事業活動は常に道徳にかなったものでなければならず、不正に得た利益は許さないと主張し、実践した。

『論語』のなかにある「余りあるをもって人を救わんとすれば人を救うときなし」という言葉を遵守し、経済活動で得た利益を惜しみなく社会に還元したのである。

 栄一は、日本を代表する銀行や保険会社、有名ホテルを精力的に設立する一方、老人ホームの先駆けとなる東京市養育院や日本結核予防協会、中央盲人福祉協会などの設立にも力を尽くした。

 こうした善行に励む一方、栄一は「“明眸皓歯”(美女)には勝てない」と周囲に公言して憚らなかった。渋沢栄一は決して聖人君子などではなかった。そこに、渋沢栄一という男の無類の明るさと大きさがあった。

 前述したが、私はこの本で“偉人伝”を書いたつもりはない。それより企図したのは、栄一という人物の偉大さに押しつぶされた渋沢家の人々の悲劇を、明治、大正、昭和の時代相に重ねて描くことだった。これはまったく類書がない着眼点だといまも自負している。

 栄一の嫡男の篤二は放蕩におぼれ、最後は廃嫡の身となった。私としては栄一の偉業よりも、立派すぎる父親をもった篤二の深い悲しみを読み取ってほしいと願っている。

 また渋沢家三代目の敬三は家業である実業の世界から身を引き、学問世界のパトロンになることに自らのアイデンティティーを求めた。

 敬三が学問の世界に投じた資金は現在の貨幣価値にして数十億円にのぼるといわれる。大阪・千里の万博会場跡につくられた国立民族学博物館も敬三なしには完成しなかった。

 国立民族学博物館の前身が、渋沢敬三がほぼ独力で自宅に立ち上げた「アチック・ミューゼアム」(屋根裏博物館)だということを知る人はいまやほとんどいない。
そもそも『渋沢家三代』は、特異な民俗学者として知られる宮本常一の評伝『旅する巨人』のいわば副産物として生まれた。

 もし渋沢敬三の物心両面にわたる援助がなかったら、宮本常一という民俗学者は絶対に生まれていなかった。

 言葉を換えれば、渋沢家三代がもたらした悲劇が、宮本の『忘れられた日本人』という傑作を生みだしたともいえる。

 この機会に本書と併せて、ぜひ宮本の著作も読んでいただきたい。必ずや得るところ大なるものがあることを確信している。

渋沢家三代 (文春新書)

佐野 眞一

文藝春秋

2019年5月31日 発売

※本記事は、2019年5月31日発売『渋沢家三代』電子書籍版に収録されている「渋沢家の真相ー電子版刊行に寄せて」の転載です。

佐野眞一(さの・しんいち)
1947年、東京に生まれる。早稲田大学文学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家として活動を始める。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で大宅壮一ノンフィクション賞、2009年『甘粕正彦  乱心の曠野』で講談社ノンフィクション賞を受賞。主著に『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』『カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」』『東電OL殺人事件』『阿片王 満州の夜と霧』『津波と原発』『あんぽん 孫正義伝』『唐牛伝 敗者の戦後漂流』などがある。