既に妻が別の男性と再婚しているケースも
そして、6月30日、男たち19人が白旗を掲げて“降伏”。7月6日、先に脱出していた1人と合わせた20人が米軍機で羽田に帰国した。
週刊朝日7月22日号は「二十人に記者四百人」の見出し。本文を読むと「二百人をこす新聞、雑誌、ラジオ、ニュース映画の報道陣」「待っていた家族たちは約二百人」とあるが……。日露戦争の日本海海戦勝利の際のことを言ったのか、「東郷(平八郎)提督以来の歓迎陣」とは大げさだが、いまと変わらぬ過熱報道。
「夜にかけて、各社が火花を散らしたのは『引抜き合戦』だ。話のうまい数人を自社で独占して、ユックリとアナタハンの秘話を聞き、手記を大急ぎでつくらせるか、座談会をひらくか……」という大騒ぎに。
7月7日、20人はそれぞれの徴用船の母港に帰郷したが、既に妻が別の男性と再婚しているケースが複数あり、中には妻が夫の弟と再婚していたケースもあったという。
この年、前年に始まった朝鮮戦争は膠着状態に陥り、7月10日、休戦会議が始まった。日本は戦争の特需景気に沸いていた。9月にはサンフランシスコで対日平和条約が調印された。同じ月、黒澤明監督の映画「羅生門」がイタリア・ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞。パチンコが大流行し、手塚治虫の「鉄腕アトム」の連載が始まった。戦争の終わりと時代が移り変わる予兆が感じられる年だった。
「長い間ご無沙汰」を意味する言葉として
新聞、雑誌などのメディアが書き立てた結果、世間はほぼ島での男女関係に絞って関心を示した。当時の「カストリ雑誌」は、挿絵を含めて露骨な性描写の読み物小説を掲載。「アナタハン」は「長い間ご無沙汰」を意味する言葉として、「『長いことアナタハンしとりました』などと用いられて流行語となった」(「昭和世相流行語辞典」)。
その年のうちには、兵助丸の一等水兵・丸山通郎の手記「アナタハン」が出版された。自分以外の登場人物は仮名だが、「あとがき」で島での死者を悼んで「ただ、ひとりの女をめぐって、自分の若い情熱を傾けつくして、花火のように自分の生命を散らしてしまった人」と、和子をめぐる男たちの争いがあったことを示唆した。ほかの帰還者も和子をめぐる人間関係については言葉を濁し、それがかえってうわさを広めた。
翌年、丸山は別の徴用船「海鳳丸」乗り組みの陸軍二等兵だった田中秀吉と共著で「アナタハンの告白」を同じ出版社から出したが、仮名は同じでも、はるかにスキャンダラスな描写になっていた。世間の好奇心を満たすためか。和子をめぐって殺人が7~9件起こったと書いた。「はじめに」では「真実はやはり書かれなければならない」と強調。「あの不条理な孤島生活にこそ生まれえた人間の悲しい宿命的、原初性をかい間見たのである」と述べた。