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「まるで“原始生活”だ 女も木の葉で腰ミノ」

 沖縄タイムスはこのネタをその後もフォローしていたのだろう。約3カ月後の1950年8月14日、2面トップで「終戦を知らずに“ア島”に七年 三十名の男の中に たった一人の女 カズ子さん、空路帰える」の見出し。「若い一女性が、このほどやっと米軍の保護に身をまかせ、グアム島経由、空路帰還を命ぜられて十一日朝、小禄飛行場に降り立った」と書いた。

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 和子本人にインタビューして、現地での生活などについても詳しく聞いており、「まるで“原始生活”だ 女も木の葉で腰ミノ」「投降を決意する 女の立場から離脱」などと報道。記事の中には「グループの中には妙な感情の対立が始まり、闘争は遂に血をみるまでに至って六人の男がその犠牲にたおれた」とあり、事件の一端が初めて表に出た。

 この記事を書いたのは同紙の記者だった太田良博氏。のち随筆でそのときのことを回想している。ある日、「南洋のジャングルから出てきたばかりの女が名護に来ているらしい。すぐ取材してくれ」と上司に言われて会いに行ったという。太田が同紙系列の別のメディアに「アナタハンの女王蜂」の題で紹介したのが、「週刊朝日」同年10月8日号に要約、転載された。

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太田良博氏の記事を要約・転載した週刊朝日。「事件の原型」はここに

「食と性、その二つを支配する女王として」

 それを見ると「男三十人にたった一人 孤島の女王蜂物語 アナタハン島に七年」の見出し。リーダーの指名で決められた「夫」が死んだことについて、「あるいは、カズ(和子)を得ようとする他の男に殺されたのかもしれない」とした。「ちょうど蜜蜂の世界における『女王蜂』のように、男が彼女を支配するのではなく、彼女が男たちを支配するようになった」、「食と性、その二つを支配する女王として、カズさんは君臨したわけであった」とも。

 この時点で「アナタハンの女王」事件の図式は、そのネーミングとともにほぼ固まった。あくまで和子1人の言い分が中心だったが。以降、「孤島の愛欲」のイメージがメディアによって流布され、人々の間に定着していく。

 島を脱出して沖縄に帰った和子が、島に残った男たちの救出を訴えたことなどから、家族らが声を上げ始める。1951年5月22日の衆院外務委員会では、3隻の徴用船の1隻「兵助丸」の母港である神奈川・三崎町(現三浦市)の町長らが出した「引き揚げ促進」陳情と請願が提出されている(2014年、その時の書類の写しが船員の遺族宅で発見されたと神奈川新聞が報じた)。