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孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活

「海に転落した」「高波にさらわれた」……。山中で墜落したアメリカ軍機の残骸とパラシュートが発見され、その際、拳銃2丁が手に入ったことから、男たちの力関係に変化が生まれた。菊一郎も変死。

©iStock.com

 和子は、男たちのリーダーが選んだ若い男と暮らし始めたが、その「夫」も変死した。その次の「夫」も……。ほかにも、男たちが次々、病死か事故死か殺人か分から死を遂げていった。「元凶は和子」とする雰囲気が強まり、和子は一人で米軍に“投降”。その訴えなどから男たちも救出されたが、最後は32人から20人になっていた――。

 孤島に取り残された32人の男と1人の女の共同生活という敗戦秘話。メディアはセンセーショナルに取り上げ、戦争の話題に飽きかけた人々の好奇心をかき立てた。しかし、「事実」がどのように認識されていったのかと報道の流れを追ってみると、「この女性は本当に『女王』だったのか」という根本的な疑問が湧いてくる。

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「事件」が最初にニュースになったのはいつ、どんな形だったのか。菅野聡美の研究論文「アナタハンの女王と伊波南哲」は、その点も調べているが、「最初の報道は新聞の小さなコラムだった」。1949(昭和24)年2月22日の朝日朝刊社会面最下段のコラム「青鉛筆」。「サイパン島から船で一昼夜、二百マイルほど北に『アナタバシ島』と呼ぶナゾの島がある」と島の名前も不正確だが、サイパンから帰国した日本人の「みやげ話」として紹介している。

アナタハン事件報道のきっかけとなった朝日「青鉛筆」

「この島にはサイパンから逃げ出した日本軍の生き残り二十八名と女性一名がロビンソン・クルーソーみたいな生活をしている」。米軍が投降勧告に行くと姿を隠す。「何回かの派遣もムダとなって米軍でもいまはほったらかし」とある。当時、同じような話がほかにもあったのかもしれないが、コラムということもあって、緊迫感の薄い戦後余話といった記事だ。

米軍にはかなり正確な情報が入っていた

“まともに”ニュースとして取り上げられたのは約1年3カ月後の1950年5月10日。紙面に掲載した沖縄タイムスは、戦災を受けたためか、2ページ建てで写真もなく、いまの町内会報のようなタブロイド紙だ。

 2ページ中央やや下に「島に今なお降伏せぬ三十名 比嘉氏は死亡 沖縄人漁夫二五名」の見出し。【東京九日共同】のクレジットで「終戦五年の今日いまなおマリアナ諸島サイパン東北方約百五〇キロのアナタハン島に元日本陸海軍じんや沖縄出身漁夫、日本じん三〇名が終戦の事実を信ぜず、現地米軍のラジオ勧告による再三の投降勧告にも応じないで逃避を続けているので……」と報じた。「△比嘉菊一郎(沖縄名護出身)一般じん労務監督者△比嘉カズ子」と2人の名前を明記。略歴も添えているほか、「カズ子」の夫が戦後、沖縄に引き揚げて暮らしていることにも触れている。

 記事は「このほど連合軍当局からの要請により近親者からの投降勧告文が引揚援護庁を経て連合軍へ届けられた」と記述。ニュースが、共同通信が米軍から得た情報を基に配信したと分かる。米軍にはかなり正確な情報が入っていたことがうかがえる。