GHQ内部の勢力争いが政治や事件捜査に影響していた
まだ占領下で、日本のあらゆる権力は連合国軍総司令部(GHQ)、具体的にはアメリカ占領軍の手のうちにあるとされた。冷戦時代に入っており、それに対応したGHQ内部の勢力争いが、日本の政治や事件捜査など、さまざまな局面に反映していた。昭電疑獄と芦田内閣の動向もそうだったとする見方が根強い。ウィロビー少将ら保守派の「G2」(参謀第2部)が、芦田内閣を支持するケーディス大佐らリベラル派の「GS」(民政局)を追い落とすための策謀だったという推測だ。
次の内閣を組織したのは、G2が推す民主自由党(当時)の吉田茂・元首相。信夫清三郎「戦後日本政治史」は、GSが吉田内閣を阻止するため、山崎猛・民自党幹事長を首班とする“吉田棚上げ”内閣を実現させようとしたとしている。しかし、山崎は周囲の説得で衆院議員を辞任。「山崎首班工作は完全な失敗に終わった」「総司令部におけるGSのヘゲモニー(主導権)も崩れ去った」(同書)。
そうしたことを背景に、10月に組閣された第2次吉田内閣で大蔵大臣兼経済安定本部長官(ほかに2つ兼職)に就任したのが、この事件の主人公・泉山三六衆院議員だった。
当時の新聞を見ると、10月16日付の読売(当時は全紙とも朝刊のみ)には早くも「蔵相泉山氏確定」の見出しで顔写真入りの記事が出ている。「吉田内閣の核心をなす大蔵大臣については、前大蔵次官池田勇人、慶大教授永野清氏らが当初組閣線上に浮かんでいたが、吉田首相は党内の新人を起用することに決意、よって組閣委員らは鋭意選考に当たり、1年生議員からの抜てきを考慮、16日(15日の誤りか)夕刻、遂に山形県選出民自党代議士・泉山三六氏を起用することに決し、同氏に入閣交渉を開始した。よって同氏の蔵相就任はほぼ決定した」。
「金融界の首脳部でさえ面識を持った人が少ない“未知数”」
一方、10月18日付朝日は「佐藤(栄作)官房長官らの推す池田勇人氏が入閣するのではないかとの観測も行われ、また前三和銀行頭取岡野清豪氏の声もある」と、まだ紛れがあることを報じている。結局、内閣は19日に成立。10月20日付朝日朝刊は「新内閣をこう見る」として財界の反応を載せているが、その中で「金融界の首脳部でさえ面識を持った人が少ない“未知数”泉山蔵相については、わずかな人たちが、あの『豪傑』では何かをやるだろうとひそかに期待している程度」と書いている。さて、どこが「豪傑」で何を期待されていたのか。
まだ衆院当選1回。それが蔵相とは、いまでも驚く人事だろう。その泉山は、この「35大事件」の「三井銀行のドル買い」に登場した、三井財閥の大立者・池田成彬に引き立てられた人物だった。同じ山形県出身で、泉山が東京帝大(現東京大)卒業後、三井銀行に入ったのが縁。1947年に退職して衆院選に立候補して初当選。翌年、蔵相に抜擢された。池田が推薦したともいわれたが、池田はのちに否定している。