もっとも、彼女はすぐにレッスンには行かなかったらしい。松浦にもそれから半年ほど連絡をとらなかったが、偶然再会し、「おまえ、まだレッスン行く気ないの?」と言われ、ようやくレッスンに通い始めたという。『M』では1997年に、彼女が松浦から命じられてニューヨークで3カ月間みっちりレッスンを受け、帰国後もトレー
それでも、松浦が浜崎に大きな期待をかけていたことはまぎれもない事実である。ちょうどエイベックスは、メガヒットを連発していたプロデューサーの小室哲哉と決裂し、自前でアーティストを育てる必要に迫られていた。松浦はまずEvery Little Thing(1996年デビュー)のプロデュースに1年半を費やして成功を収める。それに続いて売り出したのが浜崎だった。松浦から見ると彼女は「ビジュアル的に100%完璧だった」が、それゆえアイドルになってしまわないかと心配だったという。彼は《CDを売るんだったら、「アーティストの顔をしたアイドル」でなければいけないと》考えていた(※3)。
「浜崎の顔では絶対に売れない」――松浦の“逆転戦略”とは?
周囲の芸能関係者からは「浜崎の顔では絶対に売れない」とも言われたという。そこで松浦は戦略を練った。普通なら、歌手を売り出すには、できるだけ顔を露出して認知度を高めるところだが、浜崎のデビューシングル「poker fece」(1998年4月リリース)ではあえて顔がはっきりわからないジャケットを採用した(※1)。
デビュー曲から詞は浜崎自身が書いていた。彼女によれば、もともと手紙を書くのが好きで、松浦にも知り合ってからよく書いており、そこから《お前、文章うまいから、詞が書けるんじゃないの》と勧められたのだという(※2。このあたりの経緯は『M』の記述では少し違っ
ただ、デビュー当時の浜崎は、甘ったるい話し方が「バカっぽい」と嫌う人も少なくなかった。自分のことを「あゆ」と呼ぶのも、松浦の周辺では「私」に直したほうがいいのではないかという話も出たようだ。だが彼は本人に「すべて素でいけ」と、そのままで押し通させた。そこには次のような考えがあった。