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屋敷 小学生のときは北海道にいたので、東京の奨励会にいくのは現実的じゃなかったです。それに私より強い人が奨励会で苦戦していたので、まったく考えていませんでした。中学2年生のときは、父の転勤で本州にいました。全国クラスの強豪と指したり、中学生名人戦で優勝して、もっと強い人と指すにはプロの世界に入るしかないと思いました。

1学年上、18歳羽生善治五段との初対局を覚えていますか?

――1988年10月にデビューしてから2カ月後、1989年度前期棋聖戦で18歳の羽生五段と当たります(1994年まで、棋聖戦は1年に2期行われていた)。結果は羽生五段の勝ちでした。羽生九段は屋敷九段の1学年上(※1970年9月27日生まれと1972年1月18日生まれ)です。

プロデビュー直後の羽生善治現九段(1986年撮影) ©文藝春秋

屋敷 羽生さんだからと意識したことはないです。奨励会のときに羽生さんの記録を取りましたが、感想戦で読みの量や力が違うなと感じていたので。序盤で悪くなっても桁違いの力で逆転していましたし、序盤から押し切る将棋も多くなってきていました。羽生さんと私の対局も、ちょっと力が違いました。

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――1989年度(1989年4月~1990年3月)は40代の米長邦雄永世棋聖や中原誠十六世名人とも指されました。

屋敷 緊迫感がありました。盤外だと朗らかですが、盤の前に座ると雰囲気が変わって目つきや顔つきが違います。いまだと羽生さんや渡辺(明)さんがそうでしょう。それは昔の人も変わらなかったです。実際に対局すると、唸り声が聞こえてきました。トップ棋士には迫力とオーラがありますよ。

18歳のときに得意だった“変態戦法”とは?

――2年目(1989年度)の成績は46勝19敗で、C級2組からC級1組に昇級、王将戦挑戦者決定リーグ入り、そして棋聖戦での挑戦権獲得です。この原動力は何でしょうか。

屋敷 ま、勢いでしょう。あと、いまはデータベースがあるので、新鋭がどういう将棋を指すかが分かります。でも、当時はそれがなくて、先輩棋士は私の将棋がほとんど分からず、波長が合わなかったのかなと思います。戦法の相性もよかったかもしれませんね。当時は相矢倉が全盛でしたが、私は相掛かり系をたくさん指していたので、そのあたりがたまたまうまくいったんじゃないでしょうか。

――当時、相掛かりを指すプロは少ないです。屋敷九段はどうやって勉強したのでしょう。

屋敷 奨励会のときに塚田スペシャル(塚田泰明九段が開発した相掛かりの超急戦)が全盛で、自分なりに考えて勉強していました。相掛かりだと10手から20手前後で戦いが起こり、かなり研究しやすいんですよ。矢倉だとがっちり囲って、経験値が生きる戦いになりやすいんですけどね。相掛かりは独特の感覚が必要で、当時指していたのは中原先生や塚田先生、ほかに一部のベテランの先生だけでした。なので、対応が難しかったのかもしれません。

――『将棋マガジン』1990年10月号のアンケートで、当時の屋敷九段は得意戦法を「相掛かり、変態戦法」と答えています。“変態戦法”は初めて聞きましたが、何でしょう?